月曜日。
 一旦家に帰ってから、着替えて勉強道具をバッグに入れ替える。
 午後から雨という予報だったから、折り畳みの傘を持つ。
 教えてもらった裏道を一人で通って神社へと急ぐ。
 いつものように階に座っている彼が横から見えるのが新鮮だった。
「天野くん」
「あれ?」
 制服じゃない私を見て、
「家に帰ったのか」
 彼はそう聞いた。
「うん。裏を通ったらホントにすぐだったよ」
「ああ。明るいうちなら、この間の道のほうが近いかもな」
 隣に座って道具を出す。
「明後日だね、テスト」
「数学は2日目だろ? このままいけば余裕じゃないかな」
「うん。今回は少し自信ついたよ」
「数学以外も大丈夫?」
「うん。順調」
「じゃあ、今日は今までの復習からな」
「うん。お願いします」
 数学の勉強が終わる頃には、予報通りぽつりぽつりと雨が降ってきた。
「天気予報通りだね」
 傘を出そうとすると、
「そうだな。高森、こっち」
 勉強道具を持って彼が立ち上がる。
 私も慌てて道具をバッグにしまい、それに続く。
 彼は神社の左脇の古い小屋の裏に回り、曇りガラスがついた木戸を開けた。
 中を除くと、コンクリートの土間に、両脇と奥とにコの字型に少し高くなった板の間が見えた。
「入って座って。掃除してあるから」
 中に入ると、彼は木戸を閉めた。
 でも、木戸と、神社正面側の上に曇りガラスがあるので、中は結構明るく、よく見えた。
 板の間に座ると、彼が少し離れて隣に座った。
 屋根に当たる雨音が、ひどくなってきた。
「ここ、昔はおみくじとかお守り売るところだったんだって。夜は電気もつくんだ。コンセントもあるし」
 板の間にはビニールのかかった電気ストーブが一つ、しっかりしたつくりの蓋つきの木箱が一つ、入り口の脇には竹箒と鉄製のちりとりが置いてある。
 埃はほとんどなく、普段からよく使われているのがわかった。
「天野くん、いつからここ使ってるの?」
「中学に入る少し前から」
「そんなに前から?」
「ここの宮司やってるじいさんにも、夜に俺が一人でここにいるのバレたんだ。その時も、親父に殴られて顔が腫れてたから、じいさんも何も言わなくてもわかったんじゃないかな。ここを使っていいって言ってくれたんだ。腰悪くして、めったに上がって来れないから、代わりに境内の掃除してくれって。それからは、家に戻れない時は、いつもここにいる。めったに人来ないから、助かってる。冬は、さすがに外は寒いからな」
「そっか」
 ほっとした。
 外にずっといなくてすむということと、彼のために何かをしてくれる人がいるということに。
 最初に私がここに来た時も、きっと彼は小屋の中にいたんだ。
 会話が途切れる。
 小屋の屋根に、雨が当たる音が響く。
 それが新鮮で、私はその音に耳を傾けた。
「雨、結構降るね」
「ああ」
 彼も音を聞いているようだった。
「高森が、ピアノなしで弾くのに似てる」
 彼が不意にそう言う。
「ああ、そうかも」
「音楽みたいだな」
 つぶやく彼に、
「あるよ」
 私は答える。
「え?」
「ショパンの『雨だれ』って曲があるよ。左手の伴奏が降り続ける雨を思わせるの」
 私は板の間の上で、ショパンの雨だれを弾き始める。
 以前弾いたことがあるから、転調して曲調が変わるところまでは覚えていた。
 穏やかな、優しいリズムが小屋の中に響いていく。
「ホントだ」
 声が聞こえて、顔を上げると彼が笑っていた。
「すごいな、高森。雨の音と同じだ」
 いつの間にか、私の弾く左手の伴奏と屋根に当たる雨の音が調和していた。
 その時、私は、ショパンが聞いた雨の音を思った。
 体の弱かったショパンが、死の恐怖に怯えながらも愛する人とともに聞いた雨の音。
 きっと、こんな風に、幸せな瞬間だったのだろう。
 どこか憂鬱な雨音も、音楽に変えてしまうほどに。
 だからこんなにも、穏やかで優しく、流れていくのだ。
 私と彼の、時間のように。