私は、今、口元を手の甲で覆っていた――目の前を通り過ぎた――彼女が。
降りて来た階段を上って、自分の家の玄関に手を伸ばした。
ただ静かに込み上げる気持ちを胸一杯抱えて。
…都世知歩さんがすき。
菜々美さんがすき。
私は、泪が零れそう。
悲しいからじゃなくて、寂しいからじゃなくて、どうしてかって。
痛くて『泪が零れそう』なほど、都世知歩さんの気持ちがわかるから。
それを教えてくれたのが、他の誰でもない彼だったから。
玄関先にはすぐ見つかる都世知歩さんの背中が在った。
脱いだ靴を揃える男の人の手に、彼自身の視線は置かれていない。
「都世知歩さん」
今までで、一番。
静かに彼の名前を呼んだ。
「…おかえり」
ふと小さく振り返って応える。
「酔ってるの」
「酔ってないよ」
都世知歩さんが羽織っている深藍パーカーの端が揺れて見えた。
