二年後、16歳になった私はルナカムイのパオにいた。

パオから漏れ出てくる光で目を覚ました。
一緒に住んでいるはずの父上は冬児様の看病と治療をし、飼育室で実験をしているためあまり顔を合わすことはなかったが増えていく実験帳とともに置かれる手紙がうれしくてさみしさを感じることはなかった。
私はガサガサ音を立てる大きな枕に埋まりながら手探りで枕元においた目薬を探し、朝一番で目薬を差す。
俺がルナカムイで暮らしていく上で最初に指示されたことだった。

朱天楼の軒先で春女が売っていた目の色を変化せる目薬だ。
「朱夏、朱色の目は目立つからかならずこの目薬を差して。」
春女にいわれて貰ったのは以前真昼様に手渡されたものと同じ目薬だった。思わずその瓶を撫でる。
春女曰わく、
「麗星国のものに朱色の目がみつかれば__ウサギ狩りにあってしまうわ。」
どうやらテグル族は身体能力の高いうさぎを麗星国に誘拐されることがよくあったそうだ。
そのため、ウサギは目薬で目の色を変えて身を守ったらしい。
効果は半日。日没まで十分な長さだ。
「朱夏は見目麗しいし。」
と、おどける春女の隣で、俺は皆本という関係者以外入ってこない鉄壁の砦とテグル族の貞女や母上に守られていたんだと気づかされた。
しかし、もう守ってくれる屋敷も母上も貞女もいない。これからは自分で自分の身は守らなければならないと、毎日面倒だと思いつつ忘れずに差している。
真昼様に初めて目薬をさして貰ったときをひどく懐かしく思いながら。
真昼様を永遠に失ったというのに、目薬を差すたびまた会いたくなる。
貞女や母上にも。
私や貞女、母上がくるまれていた仙草は干して大きな枕にした。
朝の仕事があるから急がなければならないが、少しの間、枕に顔を埋め目薬だか涙だかわからない余分な水分が目からながれでるのを静かにみていた。

私は粗末な衣服に手を通す。目立たぬようにそっとパオをでた。
青く澄み切った空と地平線の間から朱色の太陽が昇ってくる。
あぁ、今日も一日が始まるんだ。
母上と貞女の石塔に水をお供えする。
2年の間、石塔の周りにはたくさんの花を植えてきた。
どんな季節でも花が咲いているように。
いつかルナカムイが憩いの場になりますように。
そう祈って王都の朱天楼へ向かった。

****
ととと、と小気味いい秋良の包丁の音と春女がおかゆを炊く音を目指して朱天楼に静かに入る。
「秋良、春女、おはよ。今日はなんのおかゆかな?」
春女が鍋から離れてなにかの野菜を切っているすきに蓋を取って味見する。
「あちっ!」
「こら、朱夏。もう、つまみ食いなんてしているから・・・やけどしていない?」
春女に口を開けるように促されて確認される。
「もう、やけどしてるじゃない!誰がこんな事教えたのよ」
「へへ、大丈夫だよ。春女は心配性なんだから!」
おどけると
「そのように品格と高貴さを欠いた行動はテグル族とはいえないわ。もう一度わたしがやさしく教育いたします。」
春女は一変して厳しい顔になる。
「わー、うそうそ、春女は私に一人称を変えるところから教えてくれたわね。そうよ、女性らしい作法やマナーも・・・それにテグル語や王都で使われる異国語を教えてくれた。ほら、もう十分だわ。」
上品に机に座ると春女がやれやれ、といった調子で机に食器をまとめておいた。
「朱夏、いたずらが過ぎるようなら私のお店のお手伝いはお断りするからね。」
春女は腰に手を当てて怒ったようにほほを膨らませる。
私は机に置かれた食器をそれぞれが座る椅子の前においていく。
「はは、春女何言ってんだ。薬の評判がいいから朱夏がいないと手が回らないっていってたのは誰だっけ?」
秋良は笑いながら皿の上に今とってきたばかりのようにも見える新鮮なブドウをのせる。緑色の粒が目に鮮やかだ。朱夏はふと目を細める。
懐かしいブドウの香りで涙が出てきそうなのをぐっとこらえた。
「そうなのよね、朱夏の手際が良くて私はお店に専念できてるのよね。」
春女はそれ以上言及せずおかゆの入った鍋を机まで持ってくる。
確かに私は渡辺綱兄様や藤原頼兄様に習っておいたお陰で民間薬の調合や成形なら難なく出来る。
「感謝してます。おかげで夢がかなった。」
私は春女に聞こえないくらい小さな声でつぶやいた。
人生何がどこで役立つかわからないし、どんな風に夢がかなうかもわからないものだ。
私はいつしか民のための薬を作るという夢をかなえていた。
死んでしまった人もいるのに。

秋良は機嫌よくおかゆを椀にそそぐ春女にいう。
「朱夏は薬草採取も筋が良い。手際もいいし、一昨日、金竹を取りに行った帰りに熊に襲われそうになったんだが朱夏の一撃で退散していった。一体誰に習ったんだ?」
「たまたま手を振り回していたら撃退できただけよ。」
「テグル族は動物の角や毛皮、臓器も薬にすることがある。その時に動物を傷つけず殺さなければいけない時の方法にそっくりだったんだがな。あの身のこなしも自分で編み出したのか。」
感心したようにつぶやく。
本当は薬草採取も武術も坂田登紀子姉様がおしえてくれたものだったが、説明するのも面倒だ。それにしても綱兄様に頼哉兄様それに登紀子姉様まで、いずれ私に必要になるとわかってて教えこんでいたんだろうか。

すべて当主に必要な技術とは到底思えなかった。
それとも偶然?
今となっては確かめようもない。
「おなか減ったわ。食べましょう。」
私たちの会話を遮るように春女がいう。
「・・・あぁ、そうだな。」
ヤギの乳のおかゆにソバの実と魚のアラを焼いて混ぜたおかゆを匙ですくって口元に持っていく。
「あつっ」
「朱夏は成長しないな。猫舌なんだから。」
秋良は私のさじを手に取ってふーふーとおかゆを冷ましてくれる。
そんな優しい横顔に私もついついにやけてしまう。いけない、今日は頼みたいことがあるんだった。
「秋良、やっぱり「めしや」で働かせてくれない?」
私は少し前から頼んでいたことを再度伺う。
「またその話か。だめだ。春女の店の薬の調合と成型、あとは薬草採取で十分だろう?。茶の作法や料理の仕方も勉強中しているんだし。体を休める時間も必要だよ。」
秋良はふーふーする口を止めて渋っている。
「最近、時間が余ってるんだ。」
「あのね朱夏、私たちのお店で朱夏が人目についてしまうことも心配なの。皆本の奴らがいつまた王都に現れるかわからないし、連れ去られてしまうかもしれないわ。」
そうなれば好都合だ。
返り討ちにしてやるのに。
そう思うが顔には出さないようにほほ笑む。
「大丈夫だよ。裏方に徹する。私だってもう皆本にはかかわりたくないし。秋良の店手伝えば秋良も楽になるし、お金も手に入る。一石二鳥だわ。」
心配している2人に疑義を持たれるわけにはいかない。
「たしかに厨房で働いてくれたら助かるんだよな。そうだなぁ、試しに今日からでも焼き菓子担当になって焼いてもらえるか。あの焼き菓子も結構人気があって。」
「ちょっと、秋良!」
文句を言いたそうな春女に秋良は、「俺も朱夏と一緒にいたいんだよ。」とおどけていた。
「ありがとう秋良!わたしがんばるね!」
そう言って秋良から匙を奪い返して、すこしあついおかゆをかきこんだ。
にっこり笑えば春女ももう文句は言わなくなる。

私のお願いにはめっぽう弱い兄と姉をだますようで申し訳ないけど。
これでいい。これで。

これで私の体に休みはない。
※※※
なれない焼き菓子づくりを終えてルナカムイに帰る。
最初は模様をつけたり、焼く時の温度調節が難しかったが生地を成型するのは薬を成型するのにも似ていたし、薬の焼成という工程をしたことがあるので焼き菓子づくりもすぐ慣れた。
明日は生地も作ってみたいな。
「朱夏、疲れただろう?今日はもう泊まっていけ。聖夜さんもいないんだろう?」
「そうよ、いつも無理して帰ることないわ。」

わたしはどんなに体がきつくても王都とルナカムイを往復する。
「ううん、ルナカムイに帰らないと父上が心配するから。」
「俺らと一緒に住めばいいのに。」
「そうよ、最近王都のはずれに鬼が出るって噂があるし。怖いのよ。朱夏。」
そんな甘い言葉をかけないで。
私はこれぐらい体にムチ打たないといけない。
忙しく働かないと心が壊れて潰れそうだから。
「大丈夫だよ。春女、秋良。また明日ね。」
私は振り返らず一目散にルナカムイを目指して走る。

心に体を蝕まれてはならない。
喪失感が自家中毒をおこして胸をかきむしるほど苦しい。
笑顔の裏で生きていることが嫌になる。
努力しても不安が拭えず、叫び出したくなる。
それでも。
いつも笑顔で働いていなくては。

わたしはみんなを踏み台にして生きているのだから。

帰ってきた私は上がる息を押えて珍しく父上が眠っているのを横目に深呼吸をひとつした。

「ただいま父上。・・・じゃあ始めるか。」

両腰に父上のつくった茎葉処理剤2本を背中に背負った散布用のタンクにセットし腰に二本の屶を携える。
あとは鋼鉄でつくった仮面を被る。
この仮面は暗がりで見るとおぞましい妖怪のように、背中に背負ったタンクから突き出た2本の薬剤は角に思えるようで見たものは「鬼が出た!」と一目散に逃げていく。
そのほうが都合がいい。
春女の言っていた鬼はきっと私のことだろう。
「ははは」
乾いた笑いが父上の寝息だけの静寂の中に吸い込まれる。
「鬼ですって。真昼様。」
誰も答えてはくれない暗闇に言葉を投げかける。
私は枕の中からでこぼこになった紙を一枚取り出した。
2年前、私とともにここに流れ着いた背嚢の中に残っていた「婚約証明書」だった。
奇跡だと思った。
神様が哀れに思ってこれだけでも残してくれたのだ。
私は今やただの紙切れになってしまったものを胸に抱いた。腹の肉が引き連れてしまうのではないかと思うほど声を我慢する。
なれたもので喉が締め付けれても声を出さないように泣くことができた。
しばらくして落ち着くと、
「真昼様、わたくしは復讐しているのです。そちらの世にいってもこの鬼の姿を笑わないでくださいな。」
静かにそういって婚約証明書をまた枕に戻した。
わたしの体に休みを作ってはいけない。
みんなを踏み台にしているのだから。
「さぁ、仕事だ。」
朱夏は自分に言い聞かせるようにパオの外に出て行った。

※※※