父がこの湖の中に沈められ朱夏の目の前で亡くなったとき朱夏は4歳だった。記憶はおぼろげだった。
いや、ショックで当時のほとんどは記憶にない。
だから目をつぶって現れる父はほとんど想像でしかないし、ずっと悲しげにこちらをみている。

父、皆本聖夜は聖者であり、新薬の研究を進んでする、皆本の本質的、精神的な主柱であり、皆本の要でもあった。しかし疱瘡病という感染率と致死率のきわめて高い病を研究中に自らもその病にかかった。
皆本一門の取り決めで、症状を抑える薬のない感染率の高い病になったものは筵にくるんで仙湖に沈められる。
仙湖には不思議な力があり、治療の最終手段として用いられる。といわれるが、眉唾物だ。
みんな口には出さないが、他の者に感染を広げないため、体よく殺してしまう取り決めだ。
そのため父はここに沈められた。
だからここには父が眠っている気がする。
一瞬だけの記憶が頭の中を高速で横切る。

父を仙湖に沈めるとき、母は私をふわりと抱きしめ、何かつぶやいた後、朝陽叔父上によりかかった。
その記憶は朝陽叔父上がニヤリと笑ってこちらをみてとぎれた。
朝陽叔父上は父の弟で父上の助けとなるため、15歳のころより麗星国の大学校に留学していた優秀な方である。
叔父上は19才で4才年上の母上と結婚し俺を養子してくれた。そして、父上の代わりに聖者をついだのだ。
だから、形式上俺の父は朝陽叔父上であるが、俺はなぜか朝陽叔父上と対峙すると逃げてしまう。
妙なお香のせいなのか。
朝陽叔父上の腕の中でだんだんと正気を失っていった母上をみるのに嫌気がさしたからか。
何の歯車が狂ってしまうとこんな風になってしまうんだろう。深くため息をつく。

肌寒く感じて起きあがると当たりは真っ暗になっていた。
遠くで鹿の鳴く声がする。
ねてしまっていたのか。
遠くに針の穴のような光りがかすかに見え、心なしか名前を呼ばれている気がした。俺を捜しにきたのか。
そう思うと少しほっとして、霊木からでると、かすかな光が見える方へ走った。

明かりがいくつかあったのでその一つに近づくと、碓氷貞女と藤原頼哉兄様だった。
「あ、あぁ!朱夏様!」
貞女は俺を見つけると明かりを頼哉兄様に押しつけるようにして駆け寄ってくる。
「探したのですよ!!どこで何をしておられたのですか!」貞女は大袈裟にも目に涙を浮かべているようだった。
「貞女、悪いな。霊木で一休みしておったのだ」
少しでも深刻そうに見えないように振る舞った。貞女の顔を、涙を見たら、あの腕の中に入り込んで泣いてしまいそうだった。
「あの木は人の魂を吸い尽くして大きくなると言われている木なのですよ!近寄ってはいけませんとあれほど言っていたではありませんか!」
貞女は俺にしがみつき、泣きながら文句をいっている。俺はその小さな背をそっとなでた。泣かないように唇をかんだ。
「まぁ、朱夏様はずば抜けた体力の持ち主ですし、霊木に力を吸い取られても大したこと無いでしょう。しかし、無事でよかった。」
「霊木は俺からは生気を吸い取らないんだ。なぜだろうな。」
頼哉兄様は貞女と俺に優しい笑顔のままひょろりとした細長いうでで二つの明かりを差し向ける。その明かりは頼哉兄様の灰色の長めの波打った髪や黒にみえる灰緑色の着物をいっそう際だたせた。少し向こうからも声がして、明かりが見えたので見ていると貞女と頼哉兄様は不思議そうにしていたがやがてその理由がわかったようだった。
「綱兄様、登紀子姉様」
暗闇に呼びかけると二つの明かりが森の下草をかき分ける音がしてお二人が姿を現す。
「朱夏様、ご無事でなによりですわ。いつから気づいておられました?」
登紀子姉様のきらきらと黒目がちな大きな目が好奇心いっぱいにこちらををむく。大人っぽい藤色の着物を隙無く着こなし、飾り気のない黒髪はきっちりと結ばれている。
その容姿からわからないがクマを素手で倒した、がけから落ち手足の骨が折れても命綱を口で咥えて登り切ったという逸話が残っている剛力の採取女である。
綱兄様だって体格がよく力もあるが、専門は薬物動態学と動物管理をする列記とした研究部門の長である。登紀子姉様と相撲をしてもかなわないそうだ。
「明かりは霊木から見え、匂いもしました。」
そういうと登紀子姉様は満足そうに頷いた。
「やはり驚くほどの五感の鋭さですわ」
「それにしても驚きましたよ。採取、調合、研究部門の長であり、学び舍の教師でもある三聖人が迎えにきてくださるなんて。俺が抜け出したからまたおしおきですか?」
俺は登紀子姉様、頼哉兄様、綱兄様を順に見やった。
三聖人とは皆本一門で登紀子姉様、頼哉兄様、綱兄様のこと。飛び抜けた才能を持ってそれぞれ採取、調合、研究部門を率いている三人の総称なのだ。
3人の顔がこわばったかのように見えたが、綱兄様は取り繕ったようにも見えない様子で俺に近寄ってきた。
「朱夏様がご無事を心配していました。怪我はないですか?」
綱兄様は貞女を押しのけて俺の体を確かめようとしていたが貞女が綱兄様の手をぴしりと払いのけた。
「汚い手でさわらないで下さい。さぁ、朱夏様屋敷に戻りましょう。学び舍を抜け出した理由は私が聞きますよ!」
貞女は明かりを持つ手とは反対の手で俺の手を取って続ける。
「皆、過保護だな。今日は…ちょっと気分転換にな…」
そういって下草を蹴散らす。4人の持っている明かりがふわり舞い上がった草を照らした。
「配属先が決まらぬのが不安ですか?」
頼哉兄様にズバリ言われて、だまって歩くと、小さなため息が聞こえた。
「聖者の御言いつけなのです」
ぽつりと言ったのはやはり頼哉兄様だった。
「どういうことですか?」
予期せぬ言葉に振り返ると悲しそうな登紀子姉様の顔があった。
「朱夏様は配属させるなとご命令なのです。そうでなければ、私、綱兄様と頼哉兄様を倒してでも朱夏様を採取には配属させましたわ!素晴らしい知力、体力、五感は採取部門に欲しい人材です。」
「そうです。わが調合部門も朱夏様ほどの集中力をもって取り組むものならば喉から手がでるほど。」
登紀子姉様と頼哉兄様が切ない表情で言い募ってくれる。
「研究部門も同様です。朝陽様の意図はわかりませんが、朱夏様の心の負担になるならばお伺いを…」
綱兄様が言いかけた言葉にかぶせるように言った。
「ならぬ!」
綱兄様は表情を変えない。しかし、俺は知っている。朝陽叔父上の奇行を知っているからだ。最近も私生活を戒めた側近を殺した。
「俺なら平気だ。配属されぬくらい。俺は俺のために誰かが傷ついて欲しくない。俺はみんなを守る。みんな、心配させて済まなかった」
朱夏は自分の軽率な行動を恥じて頭を下げ、三聖人もこれに対して礼をした。
頼りない4つの光が屋敷までの暗闇を細く照らしていた。


俺は馬小屋の掃除をしていた。
先日学び舍を許可なく抜け出した罰だ。
綱兄様、頼哉兄様、登紀子姉様も特にお咎めは必要ないと言ったのだが、
「お三方は朱夏様に甘すぎる!」
と貞女は俺ともども三人を学び舍の生徒席に座らせて怒った。
貞女は元々俺の父上、聖夜の教育係でもあった。
父上の幼なじみである三人は貞女の目をかいくぐりながら一緒に遊んでいたらしい。
「お三方も大人になられたのです。朱夏様にきちんと罰を与えるべきです。」
「お、おい。貞女。俺たちもう30になったのだぞ。」
「ちょっと綱兄様、私はまだ29ですわ。」
綱兄様の言葉に登紀子姉様はひっかかり、言葉を継ぐように頼哉兄様は長い前髪の間からぼそぼそと呟く。
「このようにお前に怒られているのを他の生徒に見られるのは分が悪い」
「であれば、朱夏様の罰は…そうですね。一番先に口答えした綱兄様に決め手もらいましょうか。どうせこのまま学び舍にいても配属ないのなら、研究部門で一ヶ月なにか雑用させてください」
そう言って腕を組んだ貞女に勝てる者はいない。
そういう訳で、綱兄様の統括する研究部門の雑用を任されたのだった。
綱兄様はすまなそうに馬小屋まで案内してくれた。
「朱夏様にはとりあえず午前中は毎日馬小屋掃除をしてください。あとは…なにか考えておきます。本当に申し訳ない。」
「そんなに気に病まないでください。貞女に勝てるものは屋敷内にはおりませんよ。それにこれから1ヶ月待っていても配属が決まるわけではないし、馬小屋掃除をさせてもらいます。雑用も何なりと。」

これぐらいですむなら軽いもの。
1ヶ月は少し長いし、馬小屋掃除は誰もが嫌うが、俺は嫌いじゃない。誠実に接していれば心は通じるもの。
現にここの馬たちの気位は高いが敬意を持てばそれなりに接してもらえる。
馬を馬小屋の外に出して糞便を取り除いて新しい草を敷く。馬の体を洗い、木陰で毛並みを整え飼い葉と水をあたえる。ふと一息つくと、夏の終わりとはいえ、まだ退かない季節の熱は汗となって朱夏の額から吹き出した。
「暑いー。」
着物の裾は泥や糞便でよごれ、首のまわりの手ぬぐいは汗を吸収しきって首にまとわりつく。汗を拭く手ぬぐいもないし、誰もいない。
・・・上着を脱ぐか。
心の中でそう思ったとたん貞女のひきつった顔が脳裏に浮かび「朱夏様は皆本の当主となられるお方。身だしなみを常に整えていてください」と怒気をはらんだ声まで再現される。
しかし、暑いものには勝てない。
朱夏は上着を結び留めている腰回りの紐に手をかけると馬小屋の外で何やら声が聞こえた。