世界で一番愛しい人が呆然とこちらを見ているのをこの目に焼き付けておくため、わたしは下男に刀を向けつつも無言で屋敷の外の朱夏様をみつめていた。
どうせ、この刀はふるわれることはない。
この時間を守るためのパフォーマンスにすぎない。
山賊のために使うと思われた武器をよもや屋敷の者に使うことになろうとは。
人生とはいつもわからないものだな。
神よ。
人生の流れがいささか早いのではないか?
所詮私如きの考えでは神どころか、朝陽兄上をも越えることが出来なかったということか。
そんなこと考えていると重い扉が閉まり、朱夏様の姿は消え、私のまぶたに暗く残像として残った。
貞女はうちから閂をかける。
「だめだ、貞女。だめだ。真昼様、真昼様!」
朱夏様が門をたたく音が聞こえる。
「真昼様、・・・巻き込んでしまいもうしわけ・・・ございません。」
貞女は息も絶え絶えに言い残し、朱夏様に渡されていた白酒の花を狂おしそうに抱きしめ大粒の涙を流す。
「真昼様はひとまず朝陽様の言いなりに。我らを殺せと言われれば殺して下さい。それが私と小春様の意志です。」
「小春様にも危険が迫っているのか!」
朝陽兄上は本当に予想より早く動いているようだ。
「私と小春様は三聖人にも嘘をついてきました。真昼様はご存知でしょう?朱夏様はテグル族のウサギです。朱夏様を無事お育て出来るように、小春様と聖夜様の御子であると彼らには言い含めてきました。」
「そうか、彼らは知らないのだな。」
「朱夏様が帰ってこなければ三聖人は次の当主に真昼様を押すでしょう。順当な血筋ですからね。」
わたしはただ頷いて返事をした。
「お受け下さい。本来であれば朱夏様ではなく真昼様が当主になるべきお方。朱夏様はテグル族としてまたかならず帰ってきます。再び我々テグル族と皆本が手を取って歩むために。」
貞女もテグル族ということか?
予言めいた言葉の意味を聞きたかったが、貞女に目配せされ次の言葉を遮られる。
そんなことをはなしている暇はないのだろう。
「静かにしてください、朱夏姉様」
貞女は感情を抑えて朱夏様に語り掛ける。
「朱夏様より先に死ぬ前の不忠をお許しください。恐れながら私は朱夏様を本当の娘のように思っていました。」
「やめてくれ。」
心の底から叫ぶ声が痛々しい。
ああ、愛しい朱夏様。
声を聞くだけでもう会いたくてこんなにも苦しい。
もうきっとあえない。
別れがこんなにも早くくるなんて。
「朱夏様、生き残るのです。わたくしの命ぐらい差し出さねば・・」
「だめだ、貞女。だめだ。」
「逃げるのです・・」
もう貞女の言葉が続かない。後ろから下男たちがせまっていたため思わず声が出た。
「貞女、追手だ。」
私が刀を放り投げ、両手を上げて降参していると、門の外の朱夏様が静かに駆けていく音がした。
よかった、逃げてください。
遠く、遠くまで。生きて。

我々は下男たちに取り押さえられた。
「はなせ、無礼者。」
貞女をとらえている下男たちに私がそう言うと下男たちはひるむがすぐに
「朝陽様のご命令でございます。」
といいかえす。
貞女もめくばせする。
先ほど言ったことは覚えておられますね?
そう、念を押すように。
下男の中でも一人背が低いが体中鋼鉄の筋肉で覆われた鋭い目つきの下男が静かにいう。
「真昼様もこちらへ。わるいようにはいたしません。」
舌に釘を入れ蛇のように二股に割れた舌がぺろぺろと舌なめずりし、目は血走っている。
否といえばすぐに殺されるであろうことはわかっていた。
貞女の言葉を思い出す。

真昼様はひとまず朝陽様の言いなりに。
殺せと言われれば殺して下さい。

「…承知した」
私が小春様や貞女を殺す?
そんなことできるはずがなかった。
どうすればいい?
私は身柄を拘束されつつ頭を回転させる。
母屋の奥の部屋へ連れていかれる。

そこには朝陽兄と鮎が酒をのみごちそうの前に座っていた。跪かされ、頭を抑えられる。
「目の朱いウサギはいないのか?」
「屋敷内にみあたりません。」
「さがせ。まだそんなに遠くまで行っていないだろう。あの小娘は草の根分けても探し出せ。探し出せれば、味見くらいしてもいいぞ」
「御意」
舌の割れた下男がしたなめずりをして部屋を飛び出していった。
小娘。
やはり朝陽兄上は朱夏様が女と見抜いていたのか。
味見だと!?
あの汚い指一本でもふれればきりおとしてやる!
心の中で息まく。
「朝陽様は朱夏様など居なくても立派な聖者とみとめられますわ。ですから、探さなくても、私をお召し下さいまし。」
鮎は朝陽兄上にしなだれかかる。
鮎は側女にでもなったか。
薄青い着物を肩に羽織っているものの、下着のような格好だ。朝陽兄上はいとおしそうに酒を持っていないほうの手で鮎の頬を人差し指でなで、いきなり顔を突き放す。
小春様に危険が及んでいるとすれば、鮎は兄上の次の室を狙っているのだろう。
朱夏様が戻ってくれば朝陽兄上は朱夏様を無理矢理にでも室に入れる。そうならないようにしているのだ。
「もとはといえばお前が王都であいつ等を見失ったのだろうが!」
鮎こら手を離した朝陽兄上は鮎を蹴散らす。急なことに驚いたのだろう。鮎は腹部をかかえ、畳にころがるが肩で大きく息をしながらおきあがる。
「朝陽様、もうしわけ…ございません。」
息も絶え絶えにこちらを深くにらみつける。
朝陽兄上は下男に目配せし、俺から手を離させる。
俺は居住まいを正し、正座した。
「真昼、俺はお前を泳がせていた。賢いお前が気づいてないわけないだろう?まさか信頼されているなどと思っていたわけではあるまい。」
「残念です。朝陽兄上。私のことを信頼しているから、極秘任務をさせてくれているんだと思っていたのに。」
朝陽兄上は肩をふるわせ、高笑いをした。
「ひさしぶりの真昼の冗談に笑わせて貰った。お前はうそをつくのが実に下手くそだ。しかし、そろそろ旗艦船に戻るべきだ。逃げ足の早いウサギもじきに捕まる。」
楽しそうに酒を一口ふくむ。
「そちらこそご冗談を!朝陽兄上は、じき沈む船。逃げ足の早いウサギは逃げていきましたよ。とっととね。」
「誰が沈むだと!!」
朝陽兄上は鬼の形相でごちそうが乗った御膳を蹴飛ばしながら前に進みでる。私は背嚢からあるものを取り出した。
「これがなければ支配できないのに、聖者にでもなるおつもりですか?」
私は切り札をもって朝陽兄上を睨みつける。
私の極秘任務は皆本で作った薬を運ぶことではない。
私がある者から白酒の花の毒を受け取ってくることだった。
朝陽兄上は私が持っているものを投げ捨てる。
「うるさい!お前まで馬鹿にするのか!朱夏はどこだ?あいつがいれば俺が聖者だ!」
「存じませ…」
朝陽兄上は私の言葉を最後まで聞かず顎を蹴り上げる。その場に崩れ落ち、うごけない。口の端から血がでて畳に広がるのが見えた。

「真昼様もあの蛇男のようにするんですの?」
その言葉を聞いてぞっとする。蛇男とは先ほどみた舌先の割れた男のことだろう。
「鮎よ、こいつは犬だ。」
そういって高笑いする。
「兄を差し置いて皆本を手中にしようとした罰だ。」

何の話をしているのだろう。
顎をけられたためか何も考えられない。
朝陽兄上は酒をあおってくっくっ、と楽しそうにのどをならした。

朱夏様逃げて。

下男たちが私の髪をつかんで顔を朝陽兄上に向けさせ、強いにおいの香を鼻の前に持ってくる。百聞香よりもっと酷い香りをかがされているようだった。
この香り、おぼえがある。
あの10年前飲まされた酒の香りだ。
香りというものは不思議なもので嗅ぎたくないと思っていても体内に入ってくる。
頭の中は灰色に満ちていて、絶望と不安が渦巻き叫びだしそうになる。
私は叫び声を上げた。

「やっぱり効き目が早いですわね。二度目は」
目の前の鮎は鼻に手拭いを当てて香りをかがないようにしている。鮎の高い声は非常に耳障りで肌が粟立つ。

二度目?いったい何のことだろうか?
「あぁ、わからないか?俺はお前のことを高く買っているのだよ。だからお前が留学から帰ってきた10年前だって用心して薬を盛った。結果お前は朱夏が見えなくなったようだったな。こんな効き目があると思っていなかったな。ほら」

朝陽兄上が手に持った香を自ら私の鼻の下にもってくる。
私の頭の中に朝陽兄上の言葉が反響するように聞こえる。
やはり、朱夏様が見えなくなったのは朝陽兄上のしくんだことだったのか。
なんと卑劣な。
そう思ったとたん私は苦しくて下男の手を振りほどき畳の上に叫びながらのたうち回った。
「そうだ。そうやってうち回ればそのうち従順な犬になれる。聖夜兄様のように殺されなかっただけありがたく思うがいい。」

朱夏を手に入れたいなら裏切り者の二人を殺せ。
殺すんだ。

頭の中がで朝陽兄上の声が響くようだった。

※※※

夢を見た。
いつのまにか私の体は幼くなっている。
聖夜兄様と小春様と朱夏姉様の家族にあこがれていた幼く弱い自分。
聖夜兄様はどこかな?
朱夏姉様はさみしがっていないかな。
ここにいるのは怖い。
だって皆が殺せと言ってくる。
朝陽兄上も。小春様も貞女も。
殺せっていうんだ。
怖いよ、だれか、助けて。
朱夏姉様に会いたい。
幼い私は顔を伏せてあげることはなかった。