翠がキッチンへ行くと、ベッドの脇に置かれていた本が目についた。それは使いこまれたお菓子のレシピブック。
 中をパラパラとめくると、ところどころに付箋が貼ってあり、砂糖の分量が少なめに書き添えられている。八十グラムと七十グラムの隣にはバツ印がついており、六十グラムの隣には丸印。
 なんとなくの予想。この丸印とバツ印は御園生さんが食べられる砂糖の分量ではないだろうか。
 おそらく、こうやって少しずつ砂糖を減らして御園生さんの反応を見ていたのだろう。
 御園生さんにお菓子を差し出し、真剣な眼差しで反応を待つ翠を想像したら笑みが漏れた。
「俺が甘いお菓子を食べずに済んでいるのはひとえに御園生さんのおかげか」
 戻ってきた翠はトレイをテーブルに置き、白いカップを俺の前に差し出した。
 いつもなら何を言わずともコーヒーかハーブティーが出てくる。が、今目の前にあるものはココアのように思える。まさかコーヒー牛乳というわけではないだろう。
 立ち上る湯気を吸い込むと、紛れもなくココアの香りだった。
「バレンタインだから、せめてココア……。お砂糖はティースプーンに一杯しか入れてないよ」
 スプーン一杯とかそういう問題ではなく……。
「……翠が飲みたいんじゃなかったの?」
「どちらかというと、ツカサに出したかったの。お菓子はまだ作れないけれど、ココアくらいなら淹れられると思って」
 やっぱりこれはココアらしい。
「ごめん、やっぱりココアはいやだよね? コーヒーも淹れてあるの。今、淹れなおしてくる」
 翠が即座に立とうとしたから条件反射で腕を掴んだ。急に立つな、と言う代わりに俺は違う言葉を繰り出す。
「飲んだら何か褒美くらいもらえるんだろうな?」
「え……?」
「仮にも苦手な飲み物を飲むんだ。何もなければ割に合わない」
「……困ったな。マフラーのほかには何もないし……。コーヒーとハーブティーくらいしか出せないよ」
 小動物の目で見られても引き下がるつもりはなかった。
「……キス」
「え……?」
「飲んだら、キスして」
 翠は困った人の顔でフリーズした。
 こんな顔は夏にも秋にも拝んでいる。でも、今回は譲歩するつもりはない。
「翠にキスをしてもらえるなら飲む」
「で、でもっ、風邪うつっちゃう」
「治りかけの風邪をもらうほど柔じゃない」
 退路を断つためにカップへ口をつけると、飲み慣れない液体は熱すぎることなく、また甘すぎることもなく喉を通過した。
 翠に視線を戻し、
「褒美は?」
 掴んでいた腕を引き寄せると、翠はラグに膝をつきつんのめるような体勢になった。
「褒美」
 俺は夏にした約束を思い出していた。
 翠……これもキスの範囲内だと思う。だから、受け入れてくれ。
 じっと見ていると、
「風邪、うつっても……知らないよ?」
 見下ろされているのに上目遣いで見られている気がしてくる。
「かまわない」
「……目、閉じてくれないといや」
 目を閉じればしてもらえるのだろうか……。
 疑問に思うより先に目を閉じる。
 目を閉じてからの時間がやけに長く感じた。
 すぐ近くに翠の気配を感じた次の瞬間――口付けは頬に寄せられた。
「……すごい騙された気分なんだけど」
 文句を言ってもいいと思う。あれだけ渋り、これだけ時間をかけて頬というのは詐欺だと思う。
「だって、なんだか勇気がいるんだものっ……」
 そんなことを言う唇に、掠め取るようなキスをする。
「……そんなに緊張すること?」
 翠は顔を赤らめ、眉をハの字にして口をわななかせる。
「これを飲み終えるころには慣れるんじゃない?」
 ココアがたっぷりと入ったマグカップを主張すると、
「えっ!?」
 翠は身を引こうとした。もちろん引かせはしないけど。
 二口目を口にして翠を見ると、
「本当にっ!?」
 冗談を言う人間じゃないことくらいわかっているだろうに……。
 翠は観念したように、
「……わかったから、だから目閉じて……」
 小さな声で要求され、俺はそれを呑んだ。けれども、いくら待っても唇にキスをされることはなかった。
 一口飲むたびに、頬、額、頬、こめかみ、瞼、目の縁へと遠路気味にキスをされる。
 あとは鼻と口しか残っていないと思う。鼻にされたらどう反応したらいいものやら……。
 それでもそのルートを残しておくのは不安でもあり、俺は釘を刺さずにはいられない。
「これ、最後の一口なんだけど……」
 翠はキスをするたびに顔を赤くしていき、今ではスクエアネックの縁まで身体を染め上げている。言葉に詰まった翠を真正面から見据え、
「イベントに乗じたい割に乗り切れてないんじゃない?」
 追い詰められるところまで追い詰める。と、
「……したら、嬉しい?」
「何?」
「……唇にしたら、嬉しい?」
「……じゃなかったら褒美になんて指定しないんだけど」
 少しいじめすぎだろうか。けれども、これくらい言わないと翠には伝わらないし逃げられるから――
 逡巡している翠を片目に、俺は最後の一口を口にした。
 目を瞑り、翠からの口付けを待つ。少しして、柔らかな感触が唇へと控え目に触れた。
 薄く目を開けると、目の前に翠の顔があった。紛れもなく唇へのキス――
 嬉しかった。翠からのキスが。
 以前キスされたときはあまりにも突然のことで、キスの余韻に浸ることすらできなかったけど、今は――
 中腰になったままの翠の背に腕を回し、そのまま口付けを続行する。
 いつもなら、俺が上から押し付けるようにキスをするものの、このときばかりは身長差が逆転していたため、翠にキスを請うような姿勢になる。
 不思議な感覚の中、舌で唇をノックする。と、翠の唇が応えるように薄く開けられた。
 深く口付けることなどもう何度となく繰り返している。それでも、飽きることはない。
 何度でも口付けたいと思う。時間が許すならいつまでも――
 心行くまでキスをし唇を離すと、
「……コーヒー、飲みたい?」
 翠が恥ずかしそうに訊いてきた。
「できれば」
 翠は笑顔で頷き、カップをトレイに戻して出ていった。
 次はいつ翠からキスをしてもらえるだろう。
 そんなことを考えながら、翠が戻ってくるのを待っていた。

 翠が戻ってきてからはベッドを背に、ふたり並んでレシピブックを見ていた。
「何を作る予定だったの?」
 翠はレシピブックに手を伸ばし、パラパラとめくる。そして、何か思い立ったように違うページをめくりだした。
 それは去年のバレンタインにもらった焼き菓子、コーヒークランブルケーキのページだった。
「本当は違うものを作ろうと思ったのだけど、あまりにもツカサがイベントには乗じてくれそうにないから、バレンタインはコーヒークランブルケーキとフロランタンだけにする。バレンタイン以外のときには焼かない。そしたら、少しはバレンタインが特別なものに思える?」
 翠らしいシフトの仕方に笑みが漏れた。
「そうだな」とは答えたものの、本当は違う意味で特別な日になっていた。
 キスをしてもらえたことがそれほどまでに嬉しいということを、翠は一生気づかないだろう。気づいてほしければ、俺がどうしてこの日を覚えているのか、その答えを言わせればいい。それは来年か再来年か……。
「ほかには何が食べたい……? ふたつ以外のものだったら何もイベントがなくても作ってあげる」
「甘くなければなんでも」
「それじゃつまらない」
 むくれる翠に付き合って、本に視線を落とす。
「……じゃ、これ。チーズが入ったショートブレッド。スープに合いそう」
「あ、おいしそうだね? 甘くもないだろうし……」
 そんな会話をするたびに翠はあちこちに付箋を貼り付けていった。
「スープといえばね、スープのレシピブックもあるの」
 と、次なる本を持ってくる。
 とくに会って何をする予定もなかったし、かばんの中には読みかけの本があるのみ。ならば、今日はこんなふうに過ごすのもいいかもしれない。
 穏やかな時間を過ごしていると、ベッドのサイドテーブルに置かれた翠の携帯が点灯しだした。音が鳴らないところを見ると、昨夜寝る前にサイレントモードにしてそのままなのだろう。これで電話に気づいてもらえなかったことやメールに気づいてもらえなかったことは多々ある。
「翠、携帯点滅してる」
 携帯を渡すと、いくつか操作をしてピタリと動作が止まった。何かと思ってディスプレイを覗き込むと――


件名 :いちゃいちゃしてる?
本文 :そろそろ帰るからそのお知らせだよー!


 唯さんからのメールだった。
 いちゃいちゃ、ね……。
「それなら、唯さんが帰ってくる前に最後のキス」
 翠の方を向くと、
「え……?」
「今日がバレンタインなら?」
 先ほどと同じように目を瞑る。と、「もぅ……」と抗議には及ばない小さな声が聞こえた。
 両肩に手を添えられ、ふわりとキスが降ってくる。唇が少し離れ、今度は俺からお返しをするようにキスをした。