それから、私は毎日定時に仕事を終えて、掛川さんの家に寄った。
夕飯を作って、薫ちゃんを寝かしつけて。
その後、掛川さんと少しだけ二人の時間を過ごして、その後終電で自分の家に帰る。
そんな生活を繰り返していた。



「瞳子さん、もっと自分のことを考えてください。倒れたらどうするんですか?」


「迷惑、ですか?」


「もちろんそんなことはありません……。でも。」


「私は、掛川さんと一緒にいたいんです。薫ちゃんのことも、大事にしたいんです。だから……、ご迷惑でないなら、続けさせてください。」


「瞳子さんには、何の得もありませんよ。」


「私は、ここに来られるだけで幸せなんです。」



掛川さんは、困ったように微笑する。
意固地な私に呆れたのだろうかと、少し悲しくなる。
今回ばかりは、自分が空回りをしていることを自覚できた。



「瞳子さんが帰るまでに、何かあったらと思うと気が気ではありません。」


「駅、近くですから大丈夫です。」


「大丈夫なはず、ないじゃないか。」



掛川さんが、心から心配してくれているのが分かる。
それが、実は嬉しい。



「この間の私の言葉、本気ですから。」


「え?」


「掛川さんがピアノを弾かなくなった、本当の理由は私には分かりません。だけど……、薫ちゃんのことは心配要りませんから。」


「瞳子さん……。」


「私は、掛川さんにもう一度、表舞台に立ってほしいんです。薫ちゃんは、私が大切に、」


「瞳子さん。……私はもう、表舞台に立つ気持ちはありません。」


「掛川さん……。」


「そんなことをしたら……、瞳子さんの人生を、奪ってしまうことになる。」



掛川さんの声が震えていた。
それは、掛川さん自身の気持ちが、もう一度ピアノを弾く方に傾いている証拠だと思った。



「私の人生は、誰にも奪われたりしません。掛川さんの人生だって。」


「でも、私は妻を……。また、瞳子さんまで……。」



掛川さんは、取り乱していた。
その言葉から、何があったのかをうかがい知ることはできなくて。

掛川さんの震える口元が、溢れそうな感情を何とか押しとどめているように見えた。



「掛川さん、本当に楽しそうにピアノを弾くんだもん。」


「瞳子さん―――」


「私はずっと知らなかった。あなたが、ピアニストだったこと、知らなかった。でも……、そんなの知る前から……、一人の観客として、あなたのピアノをいつまででも聴いていたいって、そう思ったんです。だから、お願い!もう一度、考えてみてください。私も、頑張るから。掛川さんに要らないって言われても、邪魔だって言われても……、頑張るから。」



掛川さんは、黙ったまま遠くを見つめた。

私は、どうして自分が、こんなに一生懸命になっているのか分からなかった。

今まで、自分が幸せになるだけのために、生きてきた私。
でも、今は自分の幸せよりも、掛川さんの幸せを祈ってる。
一生、掛川さんの愛を得ることはできなくても。
彼の幸せのためなら、すべてを投げ出してもいいと思えた。

空回りだって、何だっていい。
掛川さんの気持ちを動かすことができるのは、私しかいないんだ。


それに、私には分かった。

掛川さんの幸せ、それは―――

5年前までのように、好きなピアノを弾いて、輝かしい舞台に立つことなんだ、と。