その日は、時間を忘れて薫ちゃんと遊んだり、掛川さんのピアノを聞いたりした。
まるで、本当の家族みたいに。
そう、きっと。
誰が見たって、私たちは本当の家族だろう。
私と掛川さんの、歳の差を除いては。
その日は、掛川さんはよくピアノを弾いた。
指がもつれそうに複雑に動く曲や、薫ちゃんの好きな曲。
それから、お洒落なジャズを弾きながら、綺麗な声で歌った。
私も知っている曲は、一緒に歌って、掛川さんがハモったりした。
楽しかった。
そして何より、ピアノを弾いている掛川さんは、どんなときの彼より楽しそうだった。
そして、誰よりかっこよかった。
自然なんだ。
掛川さんがピアノを弾くという行為は、私たちが息をするのと同じくらい自然なことなんだ。
薫ちゃんを寝かせた後、小さな音でピアノを鳴らす掛川さん。
愛おしそうに鍵盤の上を動き回る指。
微笑みの浮かんだ口元。
だけど、どこか切なげなその表情に、私は胸が苦しくなる。
「ずっと、ピアノ、弾かなかったんですか?」
「……ええ。」
「こうして、家で弾くことも?」
「……ええ。一度も。」
こんなにピアノを愛する掛川さんが、一度もピアノを弾かなくなるくらい。
そのくらいつらかったんだな、と思う。
そして、それは掛川さんの覚悟なのだと思った。
薫ちゃんを、一人で育てていく覚悟―――
「ピアノを弾く掛川さんは、とっても素敵です。」
「ありがとう。」
噛みしめるように言って、なおも鍵盤を鳴らし続ける掛川さん。
その指先が紡ぐ音色に、今まで一体、どれだけの人が心を動かされてきたのだろう。
彼は、ピアニストなのに。
ピアノを弾けない、ピアニストなんて。
何て悲しいんだろう―――
「掛川さん。」
「はい。」
「ピアノ、また弾いたらどうですか?」
「……え?」
掛川さんのピアノを弾く手が止まった。
その目は、私を見ないままそっと伏せられている。
掛川さんに、こんなこと言う方が間違ってるって分かる。
だけど、言わずにはいられなかった。
掛川さんに、このままでいてほしくない。
ピアノなんて、ちっとも知らない私が。
そんなことを言うのは、あまりにもおこがましいって分かってる。
だけど―――
「もう一度、輝かしい舞台に立ったらどうですか?」
「瞳子さん……私は、」
「違います。掛川さんは、過去に生きてなんかいない。そんなひとはいないんです。人は、生まれてから、死ぬ瞬間までずっと、未来を生きているんです。違いますか?」
掛川さんは、反論する言葉を失った。
視線をずっと、鍵盤に彷徨わせている。
「掛川さん、私……、薫ちゃんとずっと一緒にいますから。だから、掛川さんは、」
「瞳子さんは、誤解をしてる。」
「え?」
「私がピアノを弾かなくなったのは、薫のためだけではありません。」
「それなら、どうして……。」
「妻への懺悔です。」
そう言ったきり、俯いてしまった掛川さんに、私はそれ以上、かける言葉が見つからなかった。
聞きたいことはたくさんあったけれど、それ以上、何も聞けなかった。
「ピアノなんて、弾けなければよかったんです。」
寂しそうに、そう言った掛川さん。
私は、知っている。
そんな掛川さんが、何よりピアノを愛しているということを。
掛川さんに、そんなことを言わせる何かを、私は憎いとさえ思った。
そして、彼の悲しみのほんの一部でさえ、一緒に背負うことのできない自分の無力さを思った。
薫ちゃんと、ずっと一緒にいる、という言葉。
それは、私の精一杯の告白だったんだ。
掛川さんが、薫ちゃんのためにピアノを弾かないのだとしたら。
そうすることでまた、表舞台で輝けると思ったから。
だけど、違った。
物事は、そう単純ではないのだ。
私の言葉で、さらに切なくさせてしまった掛川さんの表情を、私は途方に暮れて見つめた。
この人のためになりたいと思うだけ、思いが空回りする。
それがただ、悲しかった―――
まるで、本当の家族みたいに。
そう、きっと。
誰が見たって、私たちは本当の家族だろう。
私と掛川さんの、歳の差を除いては。
その日は、掛川さんはよくピアノを弾いた。
指がもつれそうに複雑に動く曲や、薫ちゃんの好きな曲。
それから、お洒落なジャズを弾きながら、綺麗な声で歌った。
私も知っている曲は、一緒に歌って、掛川さんがハモったりした。
楽しかった。
そして何より、ピアノを弾いている掛川さんは、どんなときの彼より楽しそうだった。
そして、誰よりかっこよかった。
自然なんだ。
掛川さんがピアノを弾くという行為は、私たちが息をするのと同じくらい自然なことなんだ。
薫ちゃんを寝かせた後、小さな音でピアノを鳴らす掛川さん。
愛おしそうに鍵盤の上を動き回る指。
微笑みの浮かんだ口元。
だけど、どこか切なげなその表情に、私は胸が苦しくなる。
「ずっと、ピアノ、弾かなかったんですか?」
「……ええ。」
「こうして、家で弾くことも?」
「……ええ。一度も。」
こんなにピアノを愛する掛川さんが、一度もピアノを弾かなくなるくらい。
そのくらいつらかったんだな、と思う。
そして、それは掛川さんの覚悟なのだと思った。
薫ちゃんを、一人で育てていく覚悟―――
「ピアノを弾く掛川さんは、とっても素敵です。」
「ありがとう。」
噛みしめるように言って、なおも鍵盤を鳴らし続ける掛川さん。
その指先が紡ぐ音色に、今まで一体、どれだけの人が心を動かされてきたのだろう。
彼は、ピアニストなのに。
ピアノを弾けない、ピアニストなんて。
何て悲しいんだろう―――
「掛川さん。」
「はい。」
「ピアノ、また弾いたらどうですか?」
「……え?」
掛川さんのピアノを弾く手が止まった。
その目は、私を見ないままそっと伏せられている。
掛川さんに、こんなこと言う方が間違ってるって分かる。
だけど、言わずにはいられなかった。
掛川さんに、このままでいてほしくない。
ピアノなんて、ちっとも知らない私が。
そんなことを言うのは、あまりにもおこがましいって分かってる。
だけど―――
「もう一度、輝かしい舞台に立ったらどうですか?」
「瞳子さん……私は、」
「違います。掛川さんは、過去に生きてなんかいない。そんなひとはいないんです。人は、生まれてから、死ぬ瞬間までずっと、未来を生きているんです。違いますか?」
掛川さんは、反論する言葉を失った。
視線をずっと、鍵盤に彷徨わせている。
「掛川さん、私……、薫ちゃんとずっと一緒にいますから。だから、掛川さんは、」
「瞳子さんは、誤解をしてる。」
「え?」
「私がピアノを弾かなくなったのは、薫のためだけではありません。」
「それなら、どうして……。」
「妻への懺悔です。」
そう言ったきり、俯いてしまった掛川さんに、私はそれ以上、かける言葉が見つからなかった。
聞きたいことはたくさんあったけれど、それ以上、何も聞けなかった。
「ピアノなんて、弾けなければよかったんです。」
寂しそうに、そう言った掛川さん。
私は、知っている。
そんな掛川さんが、何よりピアノを愛しているということを。
掛川さんに、そんなことを言わせる何かを、私は憎いとさえ思った。
そして、彼の悲しみのほんの一部でさえ、一緒に背負うことのできない自分の無力さを思った。
薫ちゃんと、ずっと一緒にいる、という言葉。
それは、私の精一杯の告白だったんだ。
掛川さんが、薫ちゃんのためにピアノを弾かないのだとしたら。
そうすることでまた、表舞台で輝けると思ったから。
だけど、違った。
物事は、そう単純ではないのだ。
私の言葉で、さらに切なくさせてしまった掛川さんの表情を、私は途方に暮れて見つめた。
この人のためになりたいと思うだけ、思いが空回りする。
それがただ、悲しかった―――