出勤して、私の勤める教育庁総務課に向かう。
この建物は比較的新しくて、オフィスも明るく清潔感が漂っている。

笑顔を作って、ドアを開けようとしたときだった。



「瞳子。」



袖を強く引かれて、思わずよろける。
壁に寄りかかる形になった私を、覗き込む一人の男。

壁に付いた彼の腕の間から、私は逃れることができない……。



「え、瑛二さん……。」


「なあ、訊いていいか?」


「こ、こんなところでやめてよ!」


「やめない。」



こんなに強引な人だっただろうか。

彼はいつも、スマートに振舞っていた。
常に合理的で、でも、どこか諦めたような雰囲気を纏っていて。
そこが私に似ていたはずだった。

線路の上を、何の疑問もなく真っ直ぐ進むような、そんな人だったのに。



「瞳子、俺、お前と別れるとは言った覚えはない。」


「……へ?」


「俺の記憶違いでなければ、別れたいわけじゃないと言った。違うか?」



必死に記憶をたどる。
気が動転していたから、あの時のことははっきりとは覚えていないけれど。
確かに、彼は言った。



―――別れたいわけじゃない。瞳子を、愛していると言った気持ちは、嘘ではないんだ。


―――だけど、結婚は……もう一度考えさせてほしい。そのためにも、……一度、婚約を破棄したい。




私は、瑛二さんと別れたつもりになっていた。
そして、その日に掛川さんに恋をした。

だけど、瑛二さんは違ったんだ。
瑛二さんの中では、あの日のままに時間が止まっているんだ。



「瞳子、聞かせてほしい。昨日、何をしてた?」


「え?」


「誰と、どこに行ってた?」



―――まさか。



「見たの?」


「……誰?あのおっさん。」



瑛二さんの目が鋭く光る。
私はその目に射抜かれるように、身を縮ませる。



「俺より、あのおっさんがいいの?」



瑛二さんの顔が近付いてきて、私は咄嗟に目を閉じた。

彼の顔が、触れそうに近付いたとき。

思い切り両腕で、瑛二さんを突き飛ばした。



「何するんだよ!」


「こっちのセリフよ!」



言い返した私を、呆気にとられたような顔で見る彼。
私は結婚したかったから、ずっとネコを被ってきた。
だけど、もうそんな必要はない。
私は、ノラ猫じゃない。

ちゃんと帰る場所があるんだ。
私が帰ってくるのを、望んでくれる人がいるんだ。



「瑛二さん、別れて。」


「え?」


「私、好きな人がいるの。」


「それって、もしかして、」


「あなたには関係ない。」



冷たく言い放つと、オフィスに逃げるように飛び込んだ。
強気な言葉の割に、心臓はドキドキしている。

でも、よく考えたら。
婚約を破棄したのは、瑛二さんの方だ。
フラれたのは、私なんだから。

今さら私が誰と一緒にいようと、いいじゃないか。


私のピリピリした雰囲気を感じとってか、誰も話しかけてこない。
それが私には嬉しかった。

今は誰とも話したくない。
ただ。

大好きな、悲しいあの人のところに帰りたいと、そう思った。