目が覚めたら、涙を流していた。
どうしてだかひどく、悲しくて、哀しくて、かなしかった。
「ハチ、ねぇハチ」
呼ぶ声は、自分でも驚くくらい弱々しい。
「なぁに」
柔らかい、ハチの声。
「ハチ、こっち来て」
――でも声だけじゃ不安で。
「ハルは甘えんぼさんだねぇ」
ハチはくすくす笑った。
そしてベッドにちょこんと腰掛ける。
スプリングの軋む音がして、腰の左側が少し沈んだ。
「怖い夢でも見た?」
ハチは人差し指でまだ目尻に残っていた涙をそっと拭った。
「ううん」
「どうして泣いてるの?」
「かなしくて仕方なくて」
「そう」
ハチは目を細めて微笑んだ。
出会ったときと変わらないその仕草がすごくすきで、それなのに無性に切なくなった。
腕を伸ばしてハチの白いシャツの裾を引っ張ると、ハチは上から覆いかぶさるように優しく抱きしめてくれた。
「ハルは優しいんだね」
それならハチの方が、そう言いかけて声が出なかった。
また涙がじんわりとわいてきた。
「ハチ、すき」
「うん」
「すごくすき」
「ありがとう」
「いなくならないで」
「えっ」
そう、きっと涙の理由はこれだ。
ハチは驚いたような声を上げた。
肩も、強張ったようにピクッと動いた。
触れ合っていた身体がゆるゆると離れていく。
「いなくならないよ、どうして?」
「わからないけど、そんな気がしたから」
水が染みていくようにじわりじわりと広がったかなしみは、ついに今日、涙になって目から溢れた。
すきで、うれしくて、でもその分だけ不安も大きくなっていって、どうしたらいいのかわからない。
未来も、人の気持ちも、そして命も、目に見えなくて予測もつかなくて、だから――怖い。
「ハルと離れたいと思ってるとでも?」
ハチは自分を指差して、ちょっと怒ったように言った。
「違うけど…」
「けど?」
『ハチを信じていないわけじゃないの』
そう言いたくて、でも言えなかった。
本当にそう思ってるのに、この台詞は口にすればきっと、薄っぺらい形だけのものになってしまう。
この気持ちを、そのままそっくり伝えられる術が――言葉でも何でもいいから――あればいいのに。
もどかしくて顔をしかめると、今度はハチの方が泣きそうな顔をした。
「ごめんね、安心させてあげられなくて」
胸がきゅう、と狭くなった。
そんな顔をさせてしまっている自分が、悔しくて情けなくて、とても苦しい。
「違うの、ハチは何も悪くない」
「でもね、ハルが思ってるよりもずっと、ハルのことすきだよ」
すると次にははっきりとした口調でハチはそう言って、まっすぐこっちを見た。
真剣な眼差しにドキリとする。
「ハル」
自分の名前をなぞる、愛しい唇。
かと思うと上半身を無理やり起こされて、抱きしめられた。
今度は、力強く。
ハチの体温が、触れ合ったところから流れてくる。
「ハチ、ハチ」
どうすれば伝わるだろう。
うれしいのもかなしいのも、ハチのことがだいすきだからだってこと。
それがすべてだってこと。
「あのね、ハチ」
「ハル、聞いて」
意を決して口を開いたら、ハチとまるきり同時だった。
少し身体を離して、お互いに顔を見合わせて、そしてくすくすと笑った。
たったそれだけのことで、不思議にもざわざわした気持ちが収まっていく。
「先にどうぞ」
「ううん、ハチから言って」
そう言ってハチの顔に触れようとすると、その左手は温かいハチの両手で包み込まれた。
そして少し間があって、ハチは丁寧に言葉を紡ぎ出した。
「ハルが大切なの。ハルじゃなきゃダメなの」
「うん」
「もう気持ちなんて通り越して、細胞がハルを求めてるの」
「…うん」
「もうこのまま動かないで、ずっとこうしてたい」
そしてハチは、指に、次に手の甲に、上目遣いでこっちを見た後で今度は首に、頬に、最後に唇に、キスをした。
あぁ、なんて幸福なんだろう。
未来の不安を嘆くより、今が幸せなら、それでいい。
それで、いい。
「で、ハルはなんて言いかけたの?」
ゆっくりと唇が離れて、ハチが問いかける。
「…もうハチがいないと、生きていけないって思ったの」
「うわぁ、何それ、骨抜き」
そしてまた二人で笑って、もう一度キスをした。
ハルは繊細で、傷つきやすくて、臆病で、脆い。
「例えば…例えば先に死ぬようなことがあっても、心はずっとそばにいるよ」
不安がることをやめられないハルにそう言うと、静かに頷いて微笑んだ。
「おやすみ、ハチ」
あぁ、今日は幾分か穏やかだ。
「おやすみ、ハル」
愛しくて仕方ない。
『そして、次の日目覚めるとハルはつめたくなっていた』
fin.
2014.09.01
------------------------------
「けだるい」がテーマでした。
不安に思わないと生きていけない人が、安心してしまったお話。
どうしてだかひどく、悲しくて、哀しくて、かなしかった。
「ハチ、ねぇハチ」
呼ぶ声は、自分でも驚くくらい弱々しい。
「なぁに」
柔らかい、ハチの声。
「ハチ、こっち来て」
――でも声だけじゃ不安で。
「ハルは甘えんぼさんだねぇ」
ハチはくすくす笑った。
そしてベッドにちょこんと腰掛ける。
スプリングの軋む音がして、腰の左側が少し沈んだ。
「怖い夢でも見た?」
ハチは人差し指でまだ目尻に残っていた涙をそっと拭った。
「ううん」
「どうして泣いてるの?」
「かなしくて仕方なくて」
「そう」
ハチは目を細めて微笑んだ。
出会ったときと変わらないその仕草がすごくすきで、それなのに無性に切なくなった。
腕を伸ばしてハチの白いシャツの裾を引っ張ると、ハチは上から覆いかぶさるように優しく抱きしめてくれた。
「ハルは優しいんだね」
それならハチの方が、そう言いかけて声が出なかった。
また涙がじんわりとわいてきた。
「ハチ、すき」
「うん」
「すごくすき」
「ありがとう」
「いなくならないで」
「えっ」
そう、きっと涙の理由はこれだ。
ハチは驚いたような声を上げた。
肩も、強張ったようにピクッと動いた。
触れ合っていた身体がゆるゆると離れていく。
「いなくならないよ、どうして?」
「わからないけど、そんな気がしたから」
水が染みていくようにじわりじわりと広がったかなしみは、ついに今日、涙になって目から溢れた。
すきで、うれしくて、でもその分だけ不安も大きくなっていって、どうしたらいいのかわからない。
未来も、人の気持ちも、そして命も、目に見えなくて予測もつかなくて、だから――怖い。
「ハルと離れたいと思ってるとでも?」
ハチは自分を指差して、ちょっと怒ったように言った。
「違うけど…」
「けど?」
『ハチを信じていないわけじゃないの』
そう言いたくて、でも言えなかった。
本当にそう思ってるのに、この台詞は口にすればきっと、薄っぺらい形だけのものになってしまう。
この気持ちを、そのままそっくり伝えられる術が――言葉でも何でもいいから――あればいいのに。
もどかしくて顔をしかめると、今度はハチの方が泣きそうな顔をした。
「ごめんね、安心させてあげられなくて」
胸がきゅう、と狭くなった。
そんな顔をさせてしまっている自分が、悔しくて情けなくて、とても苦しい。
「違うの、ハチは何も悪くない」
「でもね、ハルが思ってるよりもずっと、ハルのことすきだよ」
すると次にははっきりとした口調でハチはそう言って、まっすぐこっちを見た。
真剣な眼差しにドキリとする。
「ハル」
自分の名前をなぞる、愛しい唇。
かと思うと上半身を無理やり起こされて、抱きしめられた。
今度は、力強く。
ハチの体温が、触れ合ったところから流れてくる。
「ハチ、ハチ」
どうすれば伝わるだろう。
うれしいのもかなしいのも、ハチのことがだいすきだからだってこと。
それがすべてだってこと。
「あのね、ハチ」
「ハル、聞いて」
意を決して口を開いたら、ハチとまるきり同時だった。
少し身体を離して、お互いに顔を見合わせて、そしてくすくすと笑った。
たったそれだけのことで、不思議にもざわざわした気持ちが収まっていく。
「先にどうぞ」
「ううん、ハチから言って」
そう言ってハチの顔に触れようとすると、その左手は温かいハチの両手で包み込まれた。
そして少し間があって、ハチは丁寧に言葉を紡ぎ出した。
「ハルが大切なの。ハルじゃなきゃダメなの」
「うん」
「もう気持ちなんて通り越して、細胞がハルを求めてるの」
「…うん」
「もうこのまま動かないで、ずっとこうしてたい」
そしてハチは、指に、次に手の甲に、上目遣いでこっちを見た後で今度は首に、頬に、最後に唇に、キスをした。
あぁ、なんて幸福なんだろう。
未来の不安を嘆くより、今が幸せなら、それでいい。
それで、いい。
「で、ハルはなんて言いかけたの?」
ゆっくりと唇が離れて、ハチが問いかける。
「…もうハチがいないと、生きていけないって思ったの」
「うわぁ、何それ、骨抜き」
そしてまた二人で笑って、もう一度キスをした。
ハルは繊細で、傷つきやすくて、臆病で、脆い。
「例えば…例えば先に死ぬようなことがあっても、心はずっとそばにいるよ」
不安がることをやめられないハルにそう言うと、静かに頷いて微笑んだ。
「おやすみ、ハチ」
あぁ、今日は幾分か穏やかだ。
「おやすみ、ハル」
愛しくて仕方ない。
『そして、次の日目覚めるとハルはつめたくなっていた』
fin.
2014.09.01
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「けだるい」がテーマでした。
不安に思わないと生きていけない人が、安心してしまったお話。