博士と秘書のやさしい恋の始め方

パジャマに着替えて静かにリビングに戻ると、先生はまだ仕事中のようだった。

すごく集中しているみたいで、私の視線にもまったく気づかない。

頬杖をつきながら、プリントアウトした資料を熱心に読みふける田中先生。

私は気づいて欲しい気持ち半分、気づかれたくない気持ち半分、知的で端正な先生の横顔をそーっと見つめた。

仕事をしているときの先生の顔がとても好き。

こうして熱心に読んだり考えたりしている難しい表情も、実験をしているときの一点に集中する真剣な眼差しも。

男の人に“美しい”なんて言葉はあれかもしれないけど、理知的でいてどこか熱っぽい感じがすごくきれいで魅力的だと思う。

けど、いつまでもこうして見ているのもなんだか悪趣味というか、悪い気がして……仕方なく声をかけることにした。

「お先にすみません。さっぱりしてきました」

「あ、すまない。気づきませんでした」

顔をあげた先生は本当に驚いた顔をしていた。

その表情に、ふと思う。

これって純粋に「気づかなかったよー」という驚きなのか、それとも……。

まさか私のすっぴんに対する「ギョギョッ」なのか、ちょっと気になる……でも、気にしない(ことにする)。

「お仕事、大変そうですね」

あっ、どうしよう……。

なんか嫌味に聞こえちゃったかな? 

もちろん、そんなつもりはなくて素直にそう思っただけなのだけど。

「確かに大変かもしれない。いや、面倒か。嫌いなんですよ、査読」

先生はまったく気にするふうでもなく、少し困ったように笑った。

査読というのは、学術雑誌に投稿されてきた論文を読んで、掲載に値するかを審査する作業のことを言う。

「人様が骨身を削って書いた論文なので。アクセプト(受理)もリジェクト(却下)も簡単にはできない。俺だって自分の論文がいい加減に読まれたら嫌ですから」

「気を遣う作業ですね」

そういえば、以前にいたラボの先生たちも「査読は面倒くさいので勘弁願いたい」とぼやいていたもの。

「基本的には無報酬だし。割に合わないという考えもあるでしょう」

「えっ、報酬無しなんですか? 知りませんでした」

「金銭が絡むと公正性が保てない可能性がでてくるだろうし。自分だって誰かに読んでもらわなければならんわけで、持ちつ持たれつです」

「みんなが査読を断っていたら、読み手がいなくて困っちゃう?」

「そういうことです。あとはまあ、学会とのおつきあいという事情もあったり」

先生はそう言って苦笑すると、ゆっくりこちらへ歩み寄った。

そうしてまたさっきのように、背中から私を抱きしめた。

「オトナの事情というやつです」

「オトナの事情、なのですね」

先生の腕に自分の腕を絡ませながらゆらりと揺れる。

こうしていると、すごく安心する。

そして、とっても気持ちがいい。

「パジャマは猫柄じゃないんですね」

「すみません……」

「謝ることではない」

「残念ですか?」

「どうかな。何を着ていても可愛いから、あなたは」