博士と秘書のやさしい恋の始め方

呼ばれて顔をあげると、先生が少し心配そうにこちらを見ていた。

「落ち着かなくてすまない。家に帰っても仕事のメールなどと……」

「そんなこと、気にしないでくださいっ」

研究者だけでなく、いわゆる頭脳労働をしている人たちはンとオフの切り替えってあってないようなものだもの。

なのに、先生は……。

私は先生の気遣いが嬉しくて「どうかどうか気にしないで」と右手をぶんぶん振って見せた。

すると――。

「さっきから、借りてきた猫みたいだ」

先生は少し困ったように笑ったかと思うと、こちらへゆっくり歩み寄ってきた。

そうして――。

「いいのですよ? 怒っても」

私を後ろからふわりと包み込むように抱きしめた。

「怒ったりしません」

こんなことで怒るわけがないじゃない。

「あなたには怒る権利がある。“仕事なんて後にして”と」

「あったとしても行使しようとは思いません」

「そうでしょうね。ですが――俺としては、怒られてみたくもある」

「え?」

「怒ったり、我がままを言ったり、どうしようもなくなっているあなたを見てみたい」

こんなこと、初めて言われた。

だって、私のとりえは怒らなくて我がままを言わなくてしっかりしているところだって、そう言われ続けてきたのに。

「俺の前では、無理して欲しくない」

「無理だなんて……」

「あなたは我慢してしまう人だから」

そうして、先生はいっそう強く私をきゅうっと抱きしめた。

胸が熱くなって、目頭が熱くなって、みるみるうちに涙があふれた。

「先生」

「なんだろう?」

「泣きます」

無理しなくていいって先生が言ったから。

先生の腕をほどいて、今度は正面から、私から先生に抱きついた。

「知りませんよ? 私、面倒くさい女なんですから」

「ちょうどいいバランスだ。こちらも理屈っぽい面倒な男なんで」

先生はそう言うと、いつかのように私の髪に優しいキスをひとつくれた。