博士と秘書のやさしい恋の始め方

山下さんらしいアプローチの仕方だと思った。

「私のためにやめてくれたら嬉しい」みたいな言い方はしないのだな、と。

「私、疲れてイライラしたときとか、ついついチョコを食べてしまうんです。先生の煙草と同じですね。ストレス解消の必須アイテムなんです。けど、食べ過ぎていいものじゃないですもん。太っちゃうし……」

そう言うと、彼女は「はぁー」と大きな溜息をついた。

「山下さんでもイライラすることがあるんですか?」

「そりゃあもう、たくさんありますよ。って、見ていてわかりませんか?」

「さっぱり」

即答した。

が、ひょっとしてまずかったか……? 

これではまるで俺が彼女のことをちっとも見ていない、理解していないみたいじゃないか。

しかしながら、これまた事実なのだから仕方がない。

「少し疲れているようだとか、慌てているようだとか、そういった様子を見かけることはありますが、イライラというのはないですね。俺だけでなくラボの人間ほとんどが同じ感想だと思いますよ」

「そうなんですか……?」

「そうでしょう」

機嫌が悪そうで近づけないとか、今は仕事を頼みづらいとか、山下さんにはそういったところが一切ない。

「皆さんに不快な思いをさせていないのならよかったですけど」

「これからラボでイライラすることがあったら、俺に教えてください」

「え?」

「こっそり、俺にだけ教えてください」

彼女はひとりで抱え込んでしまうところがある。

責任感が強いのは尊敬すべきところだが、我慢しすぎてしまうところは気がかりだ。

「それって、田中先生には八つ当たりとかしてもOKってことですか?」

冗談めかした言い方をする彼女に、俺はさらりと真面目に答えた。

「OKです。ただし、現在イライラ中であるのを明確にすること」

「イライラ中って……なんかおかしいですね」

「そうですか?」

「そうですよ。だって、先生に“現在イライラ中です”とか言うわけですよね? なんか、笑っちゃいません?」

「笑えば案外イライラなんてどうでもよくなるかもしれない」

我ながらなんという短絡的な。

それでも、笑えれば勝ちというのはあながち間違いではないとも思う。

「わかりました。じゃあ、今度からは先生にだけこっそり言いますね。そうしたら、愚痴のひとつでも聞いて慰めてやってください」

脳内で「先生にだけ」という部分だけが奇妙な具合に強調されて心の響いた。

まったく、俺の頭はどこまで都合よくできているのやら。