博士と秘書のやさしい恋の始め方

彼女の自宅へ着く頃には、豪雨を降らせていた雲は俺たちを追い越すように通り抜け、雨脚は少し弱まっていた。

帰りしな、車を止めてからちょっとだけ彼女に明日の相談をした。

「明日は、晴れたら湖にでも行ってみますか?」

B市から車で東のほうへ行くと、ちょっとした観光スポットの湖があり、そのままさらに東へ行くと美味い魚が食べられる港町にでる。

「ぜひっ。私、まだ行ったことがないので」

「わかりました。ただ、天気次第では予定を変更したほうがいいかと」

湖までの道は車で走るぶんにはとても気持ちのいいドライブコースだし、湖の周りには大きな公園などもあり清々しくてリフレッシュにはもってこいの場所だ。

ただ、雨降りだとこれほど残念な場所はない。

「そこで、山下さんさえよければなのですが――」

俺は徐に財布の中から二枚のチケットを出して彼女に見せた。

「ちょっと子どもっぽいようですが、どうでしょうか? ここなら雨でも天気は関係ありませんし。K市はここから車で一時間くらいと離れていますし、おそらく知り合いに出くわすこともまずないでしょう」

さりげなくプッシュしてみたのだが、さてさて彼女の反応やいかに? 

俺の予想では、彼女はきっと――。

「先生、ぜひこちらへ行きましょう。雨でも晴れでも」

山下さんという人は、本当に俺の期待を裏切らない。

期待どおり、いやそれ以上というべきか。

彼女はその瞳をキラキラと(或いはギラギラとも……)輝かせながら、やや興奮気味にチケットに書かれた内容を確認するように読み上げた。

「“奇跡の宇宙。近くて遠い、狭くて広い、人体をめぐる不思議の旅”ですって」

段ボールの件といい、白衣の件といい、彼女はちょっと……変わっている。

もちろん、俺にとっては彼女のそういった一面も興味深く魅力的に見えるわけだが。

それにしても、こんなにガブリと食いついてくるとは……。

彼女のおもろ可愛さは俺をどうしようもなく喜ばせ、いたずら心に火をつける。

「山下さん、無理をしなくてもいいのですよ。そうだ、K市なら水族館もありますし。すごくキレイで幻想的だと有名なんです。そちらのほうが――」

「そんなっ、何言ってるんですかっ。先生、人体のほうはもうすぐ会期が終わりじゃないですか。しかもこれ、タダ券……えーと、招待券みたいですし。とにかく行かなきゃもったいないですよ。行くべきなんです、私たちは」

俺の心変わりをなんとか阻止しようと必死になる彼女がおもしろい。

しかしまあ、そんなに“人体”に興味があるのか? 

もちろん、遺伝子などというものと日々向き合っている理系の俺としては、彼女が生物学に興味を示してくれるのは嬉しいが。

「そうですか、山下さんがそこまで言うなら――」

「言います。ですから、明日は科学博物館へ。あ、魚はまた今度でいいです」

魚って……。

おそらく今は自分の興味のことで頭がいっぱいなのだろう。

それにしたって、丁寧な彼女らしくない、そのいかにもどうでもよさそうなぞんざいな言い方が妙におかしかった。

「明日、出るときに連絡します」

「はいっ。待ってます」

結局、明日の行先は湖でも水族館でもなく科学博物館へ。

はりきって開館時刻に合わせて出かけることに決まった。

さて、離れがたく名残惜しいが俺は仕事にいかなくては。

「では、また明日」

「先生」

「なんだろう?」

「あの……いってらっしゃい、ですね」

恥かしそうに微笑む彼女に、胸がじんと熱くなり思わず頬が緩む。

「そうですね。いってきます」

恋とは狂おしく切ないもの。

そして、愛おしくかけがえのない尊いもの。

俺は後ろ髪を引かれる思いをかき消すようにエンジンをかけ、ラボへ向かって走り出した。

雨の中を、彼女がくれた元気をのせて。