博士と秘書のやさしい恋の始め方

彼女のこととなると、俺はどうにも正気を失ってしまう。

恋というのは、なんと狂おしく切ないものだろう。

そっと頬に触れると、彼女はやっぱり少し困ったように目を伏せた。

それが拒絶でないのはわかった。

どぎまぎする彼女がまた愛おしくて仕方がない。

俺はまるで観念して罪の告白でもするように真情を吐露した。

「考えるのは、あなたのことばかりだ」

そうして、一方的に会話を強制終了させるように唇を重ねた。

先ほどから雨脚が急激に強まって、外は集中豪雨と化していた。

もともとこの界隈は人通りが多くない。

さらに、大学の講義のない土日となればなおのこと閑散としているのは言うまでもない。

加えてこの雨と風とくれば、さすがに歩道を歩く人影はない。

激しく打ち付ける雨のせいで窓ガラスは曇ったうえに雨粒だらけ。

外の豪雨と対照的に、しんと静かなふたりだけの車内。

一時的だが、外の世界と隔絶されたような、そんな錯覚を覚えた。

さて、仕事熱心で真面目な彼女はこんな不埒な俺を許してくれるだろうか。

「幻滅させてしまいましたか?」

「そんなことないです」

「本当に?」

「本当です」

「秘書の権限で“ちゃんと仕事してください”と叱責してもいいのですよ?」

冗談半分でつまらぬことを言う俺に、彼女はわざとむすっとした顔をして言った。

「そんな権限持っていませんから。それに――」

「それに?」

「怒れるわけがないじゃないですか。私だって……同じなんですから」

拗ねたようにそう言いなら、彼女は武道場でしたように俺の胸に爪を立ててガリッと引っ掻く真似をした。

「私たち、大丈夫ですよね?」

なんとも微妙な表情だった。彼女の心配はわかる。

俺とてさっきは自分自身に同じ不安を抱いていたのだから。

しかしながら、今は違う。

「大丈夫ですよ」

ふたりが同じ気持ちでいるなら大丈夫。

「少なくとも俺はそう思っています。あなたが俺と同じ気持ちでいてくれると思ったら安心したというか。気が楽になりました」

「わ、私だって……」

「え?」

「先生がそんなに私のことを考えてくださっていたなんて。嬉しいなって、自信もっていいのかなって。だから、大丈夫ですっ」

彼女は一息でそう言い終えるやいなや、ふいをつくように、素早く俺の唇にキスをした。

彼女は意外と頑固で負けず嫌いのところがある。そして、度胸と愛嬌も。

「さあ、そろそろ行きましょう。私は休みですけど、先生はこれからお仕事ですもの。ラボに行くのが遅くなってはいけませんから」

シートに掛け直しながら、何事もなかったふうを装う山下さん。

早口で喋るその様子や、妙にそわそわした仕草から、とても照れているのはバレバレなのだが。

それを指摘するような意地悪はよしておいた。

そんなことをしていたら――ラボへ行くのが遅くなるどころか、彼女を無事に送ることもままならないと思ったので。