噂をすればなんとやら…という言い回しがあるが、幸村さんが彼の名前を出した時点で噂話も飽和状態ということだったのだろう。飽和溶液から、溶解した成分の結晶がほんの少しの条件変化で析出するみたいに、それは現れるべくして現れたと言っても良い。

 彼、ドクター清水が今なぜか、僕の真正面に座っている。彼は前から僕を知っているかのような親しげな愛想の良い口調で穏やかに話していた。初対面でこんなふうに話せる技術も気持ちも僕にはないものだ。

「いやぁ、遅くなってすみませんでした。今日もいきなりのアポイントをお受け頂いてありがとうございます。こちらの法医学教室も早く見学したかったんですが、なにしろ病院の勤務と検案と海外研修でまぁ、隙間がなくて…」
「はぁ」
「岡本先生のお噂もかねがね」

 どうせロクでもない変人話が警察官と前職場の同僚とかから伝わってるのだろうが。

「堺教授には何度かお会いできていたんですが、肝心の岡本先生に挨拶の電話のひとつも連絡してなくて…」

 さっきから不思議に思っている。菅平さんは、この滑らかに話し続ける人物のどこをどう見て『話しかけにくい』と思ったのだろうか? 話しかける隙がないほどのおしゃべりだから?
 
「…失礼してまして本当にすみませんでした」
「いえ」

 ドクター清水のアポイントの電話は昼過ぎに堺教授が取り、夕方6時という時間が向こうから指定されたらしい。今日は解剖の予定はなく、定時の5時でスタッフも堺教授も帰ってしまう日だった。ドクター清水は堺教授と菅平さん鈴木さんには面識があるが、田中さんにはまだ会っていないし、それなら帰宅前の一瞬でも皆が居るところで挨拶なり何なりすればいいのにと思ったが、向こうも多忙を極めているようなので、行けるときに行こうということなんだろう。

 さて僕はなぜこの時間に居るのかというと、先日の例の凍死の自殺屍体の件で、正気を失いかけていた当日の僕が処理しきれなかった所見や写真の整理や科捜研に送る鑑定や検査の依頼なんかが山積みになっていて、もういろいろな意味で独りで解剖なんか絶対やらないと心に誓うほどの忙しい週明け2日間を送っていた。

 なにしろ臓器の切片とかはともかくとして、写真は見たくない。見てはいけない。いつものように代わりに菅平さんにカメラから画像をパソコンに移し替えてもらうのに彼女の質問に答えていると、抵抗していても不意に記憶の上澄みから鮮やかな死斑の色だけがフラッシュバックしたりして、心臓がドキドキし始めてくるのだった。