ひっそりと、ひっそりと、僕は願いながら日々を暮らす。僕が誰も傷つけないように。そしてできうる限りの適切さで他者との適切な距離を見つける。出来るならば。

 案外空虚なものだと、再びその距離感に戻った僕は、自分の感じたものを意外に思った。でも元の鞘に収まった感覚も同時にあり、それでも二回目のそれは、一回目よりも淡く切ない感じがした。これが、別の職場に移ったのならもう少しドライになれたのだろう。

 生きている人に慣れた。いつの間にか。その騒がしい世界の悲しい気持ちと淋しさを知った。切なさという言葉で表されるその気持ちを知った。困った。どう言ったらいいかわからないが、困ったんだ、僕は…

 これ以上悲しくさせないようにしなきゃならない。困り果てて壊れそうになるなどと、誰が想像しよう? 関わりというものがこの生きている人間の世界にはあって、それは様々な欲求や執着や期待で彩られている。僕はそれに気づいてきた。そういうものを皆求めると知った。なぜ求めるのかがわからなかった。だが僕はそれの答えのようなものに気がついた。

 足りないものを埋めたい。

 足りないんだ…足りない…君が足りない…誰かが足りない…心が求めている…失ったもの…最初から無いもの?

 そしてわかった。僕にはそれがわからない。いやわかる。僕も求めている。面倒の起こらない、元の静かな世界に戻りたい。

 関わりという淋しさ、それのない世界に。

 足りないものは何もない。誰もいないのはすべてがあるってことだ。だけどそれをわかっている人はいない…死者以外、誰も。淋しい世界で足りないと思って生きている人を見せられ続けた。僕を欲しいという人、僕でない誰かを欲しいという人…そして今度は不思議に思う。僕がなぜその悲しみを感じることが出来るのだろうかってことに。

 わからなくてもおかしくないのに、僕はそれをどこかで知っているから悲しみとか淋しさとか名前をつけることが出来たのだ。よく考えたらおかしいよね…足りないものがないのに、なぜこれを知っているのだろうって。でも多分、きっとそれが本当の父親と母親の残してくれた置土産なんじゃないかって、僕はこの頃思ってみたりするのだ。

 空いた席を埋めるように、願うという行為が僕に与えられ、僕はそのはっきりしない姿形のヤツをその席に座らせた。そしてはっきりしないというのは、焦点が定まらないというこを知った。結論は「神仏の像とか絵姿の存在理由を認識した」ということだった。僕は少し考えて、例の河鍋暁斎のドクロとトカゲの絵をWEBサイトからダウンロードしてそれを写真立てに入れ、本棚の中段に置いた。穂刈さんの言ったことを忘れないようにするためもあった。そしてその画像に“死神さん”と名前をつけた。