部屋に入り、扉の閉まる音に気付いた先輩が声を出した。
 「あ、佐々木さん。また会えるなんて嬉しいよ。」
 今日の先輩は美術室の真ん中で、キャンバスに向かって絵を描いている。
 「ちょうどいいところに来たよ。目の前の椅子に座って。」
 キャンバスの前には、椅子が置いてある。
 「あの…、先輩…。」
 先輩は私の方を見て、にこっと笑った。久々に見る先輩の笑顔は、とても心が落ち着いた。どこかで見たことがある笑顔、懐かしい。
 「言いたい事は分かってる。とりあえず、今は座って。」
 先輩が立ち上がり、私の背中に手を当てながら椅子へと座るように促す。大きな手、どこか懐かしい温もりが、背中からじんわりと伝わってくる。
 「今日は君を描きたいんだ。モデルになって欲しいんだけど。」
 初めてだ。私をモデルに絵を描きたいと言われた事は初めてだ。私は少し戸惑ったが、首を縦に振った。
 「…はい、お願いします。」
 先輩は絵を描いている。その間にいくつか質問もしてみた。だけど、ほとんどの質問の答えを「秘密」の一言にされてしまった。
 先輩の描き方、やっぱり似ている。父とそっくりだ。キャンバスへ目をおとす横顔や筆の持ち方。うまく描けないときの、頭の後ろに手をやるしぐさ。全てが、あの日のお父さんに似ている。
 「描けた。」
 その一言が出たのは、時計の長針が2周した頃だった。完成した絵をみて、私は目を見開いた。
 「これ…。」
 キャンバスに描かれていたのは、幼いころの私と、私を抱きあげる父だった。私の手には父から貰った筆。父の手にも、私の筆と同じものを持っている姿が描かれている。
 「…大きくなったな、サユミ。」
 私はその場で泣き崩れた。父は、そんな私を抱き締めてくれた。あの良い香りのする、大きな大きなからだのなかで。このまま、ずっとこのままで居たい。だけど1つ、確かめたい事があった。
 「あの時の質問…。覚えてる…?」
 「みず色って何でみず色なのかってやつだな。」
 やはり父だ。私は大きくうなずいて、父の教えてくれた事を、頭の中で思い返した。
 「みず色は、青と白を混ぜた水色じゃないだ。海はもともと透明で、空がうつって青色に見えるんだ。夕日がうつれば赤色に、空が暗い色ならば暗い色と、みず色は、人の心の色でもあり、人の変わりゆく心の色でもあるんだ。」
 「うん…。ありがとう、お父さん。私、頑張る。きっとお父さんを喜ばせられる絵を、描いてみせる。みず色を使って。」
 「じゃあ一緒に、仕上げようか。」
 私は父の膝の上にのり、私の描き途中であった絵を一緒に描き始めた。あの時の様に、父が私の筆を持ちながら、父と、一緒に描いた。
 どれくらいの時が経っただろう。気付いたら、父はいなくなっていた。筆置きには一本、筆が増えていた。あの事故以来行方が分からなくなっていた父の筆だ。心なしか、まだ温かい様な気がした。
 その後、父と一緒に描いた絵は地区予選入賞、その後全国大会で金賞を貰った。父と頂点にたった。
その事もあってか、私には友達ができ、毎朝あいさつをしてくれる子も増えた。昔思った、恋愛をしてみたいという思いも叶い、今は恋人ができた。
 一か月後の月命日、父の墓石を訪れた。墓石に、佐々木と、一ノ瀬という苗字が彫ってある事に気付いた。私はふふっと、先輩の事を思い出した。
 「また会いに来ますね、一ノ瀬先輩。」
 そうつぶやいたとたん、風にのり、あの香水の香りが漂ってきた。