「ただいまー」
靴を脱ぎ階段をのぼると「おかえりなさ~い」と母・由紀枝の声がキッチンの方から聞こえた。
夕食までは少し時間がある。
自分の部屋に鞄を置き、和人はクロベエを散歩に連れていくことにした。
和人が玄関から姿を見せるとクロベエは、ワンワンと吠えてはしゃぎまわった。
「クロベエ、お座り。」
クロベエはハッハッと荒い息を吐きながら、きちんと「お座り」をしてリードをつけてもらった。
「よし。」という和人の声で、クロベエが駆けだした。
和人はクロベエに引っ張られるようにして、軽く走った。
散歩のコースはいつも決まっている。
車の通りが少ない道を約40分かけて歩く。

10分ほど行くと、柴犬のような栗色の小さい犬を連れた女の子が、前方からこちらへ向かってきた。
和人はその女の子を知っていた。
1学年下でバスケット部の月野という苗字の子だった。
いつも明るく愛嬌のある子で、2年生はもとより3年生の男子の間でも可愛いと評判の女の子だ。その女の子との距離が10mにまで近くなった。

すると、その柴犬らしき犬が、クロベエに向かって吠えだした。
クロベエも少し止まって身構えたが、飼い主が柴犬を引き寄せているのを見て、安心したのだろう、前方を向きゆっくりと歩き出した。
「だめよ太郎、だめ。」
月野という女の子が必死でなだめるが、吠える声はますます激しくなってくる。
ちょうどすれ違う瞬間、和人と月野の目が合った。
月野は和人を見て、申し訳なさそうに軽く会釈をした。
和人も会釈を返す。

と、その瞬間、
「きゃっ!」
月野が短い悲鳴を漏らした。
手からリードが離れ、太郎という犬がクロベエにパッと近寄る。
クロベエは素早く身構え、「ぐぅぅぅぅ」と低く吠えて威嚇した。
太郎という犬は吠えながら、クロベエの1メートル程前を、跳ねたり飛びついたりしそうな姿勢をとりながら、右へ左へめまぐるしく動いた。
「大丈夫。クロベエは自分より弱い相手をけがさせたりしないから。」
和人は月野の方に向かって、なるべく目を合わせないようにして話した。
和人はかなりのあがり症で、女の子の顔を見ながら話をすることができなかったのだ。
月野は「すみません!」と言いながら犬のリードを捕まえようとしていた。
だが、なかなか捕まえきれない。
「捕まえた!」
月野はようやくリードを捕まえて、ぐっとクロベエの方から引き離した。
「本当にすみませんでした。」
「ううん、大丈夫。」
和人は、少しだけ勇気を振り絞り月野の顔を見てみた。
月野はすまなさそうに、ちょっとはにかみながら和人を見ていた。
左のほほにできたえくぼがチャーミングで、和人の顔はみるみる真っ赤になった。
「いくぞ、クロベエ。」
和人は急にバツが悪くなって、月野に背を向けて歩きだした。