その日の夜。

一人暮らしをしているアパートから、そっと抜け出した。

そして、大学に向かった私―――



ライフサイエンス実験棟は、まだ明るくて。

誰かいるんだと分かった。



来てみたはいいけれど、どうやって忍び込んだらいいのか分からない。

いや、忍び込めるはずないんだ。

まずは、そこに入ることのできる8ケタの番号を手に入れなければ……。



父の持ち物は、10年前、警察にすべて押収されてしまった。

だから、実家にも手がかりは何もない。

ただ、ここになら何か残っているかもしれないんだ。


建物の陰で、考えを巡らせていた時だった。



「わっ!」


「きゃ!」


「驚いた。……君、そこで何をしているんだ。」



突然現れた、ラフな服装の男。



「考え事してただけ。あんたこそ何してるのよ。」


「あ?アンタ、だと?」


「そうよ。あんただって、十分怪しいじゃない。」


「お、俺は別に……。それより君は、考え事って、こんな夜遅くに何を、」


「どうやったらこの建物に入れるか、考えてたの。」


「は?……それなら、俺も同じだ。」



彼はくすり、と笑った。

なんだか子どもっぽさの残る笑顔だった。



「ここに入る8ケタの番号を失くしたんだ。」


「は?」


「いや、ポケットに入れたまま洗濯しちゃって、」


「あなた、バカ?」


「うるさい、この小娘が。」



どう見ても、30代のこの人が。

そんなくだらないミスで入れなくなるなんて……。



「あ、あそこ。窓が開いてる。」


「どれ?あ、ほんとだ。誰だろう、あの窓は開けちゃいけないことになってるのに……。」


「それより!あそこからなら、入れるんじゃないの?」


「……君、あそこ結構高いぞ。」


「どっちかが入れたら、内側から開けられるんじゃない?」


「ああ、でもあそこまでよじ登るのは……。」


「ほら、ぶつぶつ言ってないで!踏み台になってくれる?」


「……は?」


「そうじゃないならあなたがよじ登れるの?どっちか選んで!」


「いや、……その、」


「ほら、ぐずぐずしないで!」



心底困った表情をしている彼に、私はなんだか腹が立ってくる。



「踏み台になるのがそんなに嫌?」


「や……、俺はそういう……何ていうか、やるよ。やればいいんだろ。」



よく見れば、彼はとても華奢で。

踏み台にするのはちょっと可哀想にも思えたけれど……。



「乗るよ。」


「ああ。……うっ!」



呻く彼の背中を踏み台にして、私は何とか窓に手を掛けた。



「早く!そのまま押し上げてよっ!」


「なに?……くそっ!」



彼のか弱い力で何とか押し上げられて、私は窓から滑り込んだ。

そこは、二階の廊下の突き当たりで。

奇跡的に誰もいなかった。


一瞬、そのまま父の研究室のあった場所を探そうかと思ったけれど―――



「仕方ないなあ……。」



忍び込んできた形跡が分からないように、窓を閉めて。

そして、階段を駆け下りた。


自動ドアの向こうには、こちらを見つめるあの男性。

内側からそのドアを開けて、彼を中に入れる。



「はあ、それにしても重いなあ、お前。」


「は?あんたがか弱いの!余程育ちがいいのね!」



そう言うと、彼はあからさまに私をにらんだ。



「お前なあ、俺に向かってそんなこと言っておいて、ただじゃおかないぞ!」


「俺に向かって、って。あんた何者なの?」


「お前、俺のこと知らないのか。教授だぞ、この大学の。」


「教授?あなたが?そんな冗談、通じると思ってるの?」



笑ってしまう。

彼が教授だなんて。

暗証番号を書いた紙をポケットに入れたまま、洗濯しちゃうような教授がどこにいるっていうの?



「おい、信じてないな。」


「信じるわけないでしょ?」


「ああ、そうか。じゃあ信じなければいい!」



くすくすと彼は笑う。

やっぱり嘘だ。

なんて変な人なんだろう……。



「とにかく、私忙しいの。じゃあね!」


「あ、おい、」


「なに?」



振り返ると、彼はふっと笑った。



「お前、何て名前?」


「私?」



一瞬ためらったけれど、彼は悪い人には見えなかったから。

正直に答えた。



「吉岡。……吉岡愛莉。」


「愛莉ね。」


「あなたは?」


「俺は陽登。お前の言う通り、教授なんかじゃなくて院生。」


「院生?それにしては老けてるのね。」


「お前、ほんっとにズバズバものを言うやつだなあ……。」



呆れたようにそう言って、彼は頬を緩めると去って行った。

はると。

優しい響きの名前だ。


この夜は、不思議な夜だった―――