屋上を後にしようとしていたときだった。
「愛莉!」
突然呼ばれて振り返ると、屋上の扉の向こうから日に焼けた笑顔がのぞいた。
そのあまりの懐かしさに、私は声も上げられなくなる。
「うそ……。」
「嘘じゃない。俺は生身の人間だ!」
「慧兄……。」
「約束通り会いに来たよ。遅くなって、ごめんな。」
意図せず零れ落ちた涙が、足元のコンクリートに染みを作っていく。
「ほんとだよ、慧兄……。遅いよ。」
「ごめんって。」
「でも、いいの。」
「え?」
「また会えて、よかった―――」
慧兄、というのは、実の兄ではない。
彼は、私の幼馴染で、小さい頃から兄のように慕ってきた。
だから彼は、何もかも知っている。
私の父が、犯罪者だということも。
私が、それを信じていないことも―――
私と母が引っ越すとき、慧兄は泣きながら約束した。
必ず、私に会いに行く、と。
慧兄は、知らぬ間に見違えるようにたくましくなっていた。
私と同じくらいだった背は、私よりずっと高くて。
彼が、一歩一歩私に近付いてくる。
そして、私の涙に濡れた頬に、そっと触れた。
「泣くな、愛莉。」
懐かしいその言葉に、また涙が溢れだす。
父が亡くなる前も、私は泣き虫だったから。
どうでもいいことで、いつも泣いていた。
そんな私に、慧兄はいつだって、「泣くな、愛莉。」って言ってくれたね。
そして、父が亡くなって。
理不尽さに耐え切れず、泣いてばっかりだった私にも。
同じ言葉を掛け続けてくれた。
だからかな。
慧兄がいなくなっても、いつしか。
私はたくましくなって。
父の罪を晴らすために生きることで、悲しみを乗り越えようとした。
「ずっと、会いたかった。」
「俺も。」
「来てくれて、ありがとう慧兄。」
「俺は、約束は守る男だからな!」
「ふっ、そうだね。」
屋上のフェンスに寄りかかって、慧兄と話した。
こんな日が来るなんて、ついさっきまで思いもしなかったよ。
慧兄の隣にいると、いつも安心できるから。
「俺、高卒で就職したんだ。」
「そうなんだ。」
「お前が小学生のとき転校して、他県に引っ越してから、俺はずっとこの街で生きてきたんだ。お前は、どこに引っ越すか最後まで教えてくれなかっただろ。だから、探すにも手がかりがなくて。」
「そうだね。ごめん。」
「いや、お前は何も悪くない。仕方がなかったんだ。」
転校するとき、怖かったんだ。
もしも、引っ越し先がばれて、またマスコミに追い回されたり、犯罪者の娘としての扱いを受けることが。
だから、その日から私は『吉岡愛莉』になった。
「君が、この街に戻ってきたことを知って、俺は驚いたよ。どうして今、ってな。……だけど、そこまでしてお前が戻ってくる意味は、ひとつしかないと気付いた。」
「……うん。」
「お父さんの、罪を晴らすんだろ?」
「……でも、まだ何も見付けられてないの。」
「そうだよな。……もう10年前のことだもんな。」
あれから10年も過ぎて、私も慧兄も大人になった。
だけど、私の中でずっと、時は止まっている。
私の父を、母を、そして私自身を陥れた誰かを、明らかにするその時まで。
「危ないことはよせよ。」
「え?」
「もう誰も、あの事件を覚えている人なんていない。だからお前は、もうお父さんのことに縛られなくていいんだ。」
「でも……。」
「俺は、それを言いに来たんだ。なあ、愛莉。何もかも忘れろ。忘れて、幸せになれ。」
真剣な慧兄の顔を見つめて。
私は、曖昧に頷いた。
そんなこと、忘れるなんてこと、できないと分かっているくせに―――
「じゃあ、俺は仕事に戻るけど。また会おう、愛莉。」
「慧兄……。」
彼は、軽く手を挙げて去って行った。
その横顔は、大人びていて。
私が小学生の頃の慧兄とは、別人のようだった。
「ごめん、慧兄……。」
約束、守れそうにないよ―――
この日、私はある決心を固めた。
ついに、動き出すときが来た、と。
「愛莉!」
突然呼ばれて振り返ると、屋上の扉の向こうから日に焼けた笑顔がのぞいた。
そのあまりの懐かしさに、私は声も上げられなくなる。
「うそ……。」
「嘘じゃない。俺は生身の人間だ!」
「慧兄……。」
「約束通り会いに来たよ。遅くなって、ごめんな。」
意図せず零れ落ちた涙が、足元のコンクリートに染みを作っていく。
「ほんとだよ、慧兄……。遅いよ。」
「ごめんって。」
「でも、いいの。」
「え?」
「また会えて、よかった―――」
慧兄、というのは、実の兄ではない。
彼は、私の幼馴染で、小さい頃から兄のように慕ってきた。
だから彼は、何もかも知っている。
私の父が、犯罪者だということも。
私が、それを信じていないことも―――
私と母が引っ越すとき、慧兄は泣きながら約束した。
必ず、私に会いに行く、と。
慧兄は、知らぬ間に見違えるようにたくましくなっていた。
私と同じくらいだった背は、私よりずっと高くて。
彼が、一歩一歩私に近付いてくる。
そして、私の涙に濡れた頬に、そっと触れた。
「泣くな、愛莉。」
懐かしいその言葉に、また涙が溢れだす。
父が亡くなる前も、私は泣き虫だったから。
どうでもいいことで、いつも泣いていた。
そんな私に、慧兄はいつだって、「泣くな、愛莉。」って言ってくれたね。
そして、父が亡くなって。
理不尽さに耐え切れず、泣いてばっかりだった私にも。
同じ言葉を掛け続けてくれた。
だからかな。
慧兄がいなくなっても、いつしか。
私はたくましくなって。
父の罪を晴らすために生きることで、悲しみを乗り越えようとした。
「ずっと、会いたかった。」
「俺も。」
「来てくれて、ありがとう慧兄。」
「俺は、約束は守る男だからな!」
「ふっ、そうだね。」
屋上のフェンスに寄りかかって、慧兄と話した。
こんな日が来るなんて、ついさっきまで思いもしなかったよ。
慧兄の隣にいると、いつも安心できるから。
「俺、高卒で就職したんだ。」
「そうなんだ。」
「お前が小学生のとき転校して、他県に引っ越してから、俺はずっとこの街で生きてきたんだ。お前は、どこに引っ越すか最後まで教えてくれなかっただろ。だから、探すにも手がかりがなくて。」
「そうだね。ごめん。」
「いや、お前は何も悪くない。仕方がなかったんだ。」
転校するとき、怖かったんだ。
もしも、引っ越し先がばれて、またマスコミに追い回されたり、犯罪者の娘としての扱いを受けることが。
だから、その日から私は『吉岡愛莉』になった。
「君が、この街に戻ってきたことを知って、俺は驚いたよ。どうして今、ってな。……だけど、そこまでしてお前が戻ってくる意味は、ひとつしかないと気付いた。」
「……うん。」
「お父さんの、罪を晴らすんだろ?」
「……でも、まだ何も見付けられてないの。」
「そうだよな。……もう10年前のことだもんな。」
あれから10年も過ぎて、私も慧兄も大人になった。
だけど、私の中でずっと、時は止まっている。
私の父を、母を、そして私自身を陥れた誰かを、明らかにするその時まで。
「危ないことはよせよ。」
「え?」
「もう誰も、あの事件を覚えている人なんていない。だからお前は、もうお父さんのことに縛られなくていいんだ。」
「でも……。」
「俺は、それを言いに来たんだ。なあ、愛莉。何もかも忘れろ。忘れて、幸せになれ。」
真剣な慧兄の顔を見つめて。
私は、曖昧に頷いた。
そんなこと、忘れるなんてこと、できないと分かっているくせに―――
「じゃあ、俺は仕事に戻るけど。また会おう、愛莉。」
「慧兄……。」
彼は、軽く手を挙げて去って行った。
その横顔は、大人びていて。
私が小学生の頃の慧兄とは、別人のようだった。
「ごめん、慧兄……。」
約束、守れそうにないよ―――
この日、私はある決心を固めた。
ついに、動き出すときが来た、と。

