形なき愛を血と称して


「あ、ぁ、いやああああぁ!」

トトの絶叫と、ラズがゴミのように捨てられたところで、リヒルトが追いつく。

手遅れと題するに相応しい場所にーー


「オロバス……」

息を切らし、猟銃を杖として今にも崩れそうな膝を支えるリヒルトでも、化け物を睨む目つきは獅子のそれに近かった。

目つき鋭く、今にも噛みつくと言わんばかりの威圧感は、相手が紛れもない敵であると言っているようなものだった。

脅威となろう、敵だと。

「ひ、ひと、ととっ、ひーっ、ひひはははっ!」

人間の手が掲げる羊の頭が哄笑する。
重なり合った数多の四肢も、合わせるかのように震えていた。

しかして、何本かの四肢がぼろぼろと端から腐っていく。

「消えろ。カウヘンヘルム家の敷地内に入る意味は、とうの昔に知っているはずだが?」

柵を超えて中に入ったところで、守護の効果は続いている。大きさからしてーー百以上の四肢が全て腐蝕するまで時間はかかるだろうが、悪魔ーーオロバスの寿命は確実に蝕まれている。

体の一部が腐っていく現段階において、痛みで逃げ出してもいい。実際、“こいつはそういう奴だ”とリヒルトは熟知していた。


「ひとつ、かなえば、ひひっ、かうへん、憎い、カウヘンヘルムっ、ひとつ、我に与えっ」

その熟知が覆される。
苦痛を悦楽に変換する状態は、つい先ほども見たではないか。


「ちっ、薬を欲したのはこの為か」

痛覚がない体は存外に厄介だと言うのに、更に悦楽と思えるようであれば、もはや無敵に近い。

死ぬことを恐れない。
恐れがないからこそ、無謀になれる。

「いのち、いいっ、いのちっ、我と、契約、は、ははは、破棄した、貴様ら、カウヘンヘルムううぅ!」

「よく回る口だな。そのまま意識も夢の国にでも行けばいいものの」

薬の濃度が低い。
先のグランシエル家当主には、とっておきのを吸引させたため、喋ることはおろか、立つことも出来ない状態だったというのに。

あの自称魔法使いも、こういった危機に直面したのかと頭の片隅で思う。

「リヒルトさんっ、ら、ラズっ、ラズが!わたしっ、私のせいでっ」


虫の足にーー蜘蛛の足に捕らわれたトトは、助けよりも先に、己の愚かさに涙する。

「くすりをっ、わたしたから、こんなっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

詳しい経緯を知っているトトではないが、薬を渡した途端に、この絵図が出来てしまったのだ。事の発端は、自分と思うのも無理はない。

「いいよ、トトちゃん。それよりも、何を願った」

「え?」と、トトが疑問を投げかけるのを見越し、リヒルトは続けた。

「こいつーーこの悪魔はね、オロバスと言って、悪魔の中でも異質な存在なんだ」


悪と名の付くものであれば、それらしくなければならない。いくら、契約が出来る人種だとしても、力を得た見返りは法外。人間に富を与える代わりに、その命を貰うと言った天秤が釣り合わない対価を要求するような輩だが、オロバスに限っては例外だった。

「これは、“誠実”だ。人間に召喚されること自体が利益と思っているような悪魔だからね。召喚後の要求は、“ついで”に過ぎない。法外な要求をすることもなく、確実に願いを叶えてくれる」

カウヘンヘルム家代々に伝わる教えなんて、右から左かと思えば、いざ口すればすらすらと出てくる。リヒルトの頭には、分厚い本を渡す父の姿が浮かんでいた。

オロバス。孤独の王子。
廃れた古城にて途方もない時を過ごしてきたオロバスは、外界に呼び出されることこそが喜び。召喚者が弱小たる人間であっても、オロバスにとっては孤独より引き離してくれる人物。召喚者の間では、“扱い易い悪魔”として重宝されている。

カウヘンヘルム家一代目当主が、一番始めに呼び出した悪魔。

その悪魔に、当主は願う。

『更なる力が欲しい』

他を圧倒する魔の力を欲した代わりに失ったのは、妻の命だったという。

これが法外か否かは、言うまでもない。誰もなし得なかった奇跡の術(力)を持ったカウヘンヘルムは富と名声を得る。

一代目が死去すれば、二代目、三代目と、それぞれオロバスと契約し、力を得たという。

一人力を得れば、一人の命を失う。

そんな形式が続く中、ある代にて、こんなことを言った者がいる。