「え……、なんで、柵の向こうに」
もしかして、群れからはぐれて、迷ってしまったのだろうか。
大変っ、とすぐさま羊を連れ戻そうとするが、その色を見て、体が硬直する。
「願い一つ、一つ叶えば、こちらも一つ」
人語を介する黒い羊が、柵の手前までやってくる。
「願い一つ、一つ叶えば、こちらも一つ」
トトのもとに来ようと、羊の足が柵に触れた途端、その足が腐食した。
一本の足がなくなり、バランスを崩す羊。されども、気にも止めずに羊は続ける。
「願い一つ、一つ叶えば、こちらも一つ」
同じ事を繰り返す羊が、何であるのか、分からないトトではなかった。
「悪魔……」
柵の内側に入って来れないことから、リヒルトが言っていた悪魔であることも察せる。
すぐにリヒルトに伝えなきゃと、焦燥する一方で。
「願い一つ、一つ叶えば、こちらも一つ」
悪魔の誘惑に耳を傾けてしまっている自分がいた。
「願い一つ……、な、なんでも?」
「叶える。叶えば、こちらも一つ」
叶えてもらうと羊は言う。
取引が出来る悪魔は、そう珍しくない。
力ない悪魔は、そうやって利益(欲しいもの)を得ていくしか方法がないのだ。
「……」
しかして、この悪魔の言葉を信じてはいけないとは、古来より伝わることではないか。
自身の利益でしか動かぬ者を決して信用してはいけないが。
「リヒルトさんのそばから、離れたい」
悪魔の力を借りてでも、叶えたい望みが出来たトトにとっては藁にもすがる思いであった。
「もう、リヒルトさんを傷つけたくないの……!」
その一心で、悪魔に乞う。
乞われた悪魔は、首を縦に振った。
「一つ叶える。そちらも一つ」
「叶えるっ、そっちの願いも叶えるからっ」
何でもすると言わんばかりに、トトは悪魔に近付いた。
腐食したはずの前足の代わりに、人間の手が生えた。
ひっ、と怯えるトトに構わず、その手は指をさす。
「こちらの願い。一つ叶える」
指さす方向には、青い屋根の家。
「カウヘンヘルム家の全て。あれらでしか成し得ぬ唯一」
ぺたりと、指差しを終えた手のひらが地面につく。
カウヘンヘルム家にしか出来ない物。そう変換した頭に出てきたのは、小瓶に入った赤い気体だった。
「薬が、欲しいの?」
皆が欲しがっていた物だ。この悪魔も、悦楽を望むのか。戸惑うトトを後押しするかのように、悪魔は言う。
「願い一つ、一つ叶えば、こちらも一つ」
「……、分かった」
その薬を悪魔がどうするかなんて、詮無きことだ。今は一刻も早く、リヒルトを傷つけないようにしなきゃいけないのだからーー


