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行く場所なんかなかった。
居場所から逃げた者は、ひたすらに走るしかない。
羽を使えば、もっと遠くへ行くことも出来たが、走り疲れて足を止めるあたり、彼女自身、自分はどこにも逃げられないと自覚していたからだった。
「リヒルトさん、どうし、て……」
彼を愛している自覚があるからこそ、トトはその居場所から離れることが出来ない。
大切なんだ、好きなんだ。
けど、逃げたくなってしまう。
牧草地の区切り。
柵と有刺鉄線の境界を前にして、トトは立ち止まった。
乱れた息を整える。
もっと彼と距離を取りたいと思えど、境界線より先には進めない。
リヒルトから言い聞かされているからだ。
羊の逃亡防止と、森林に住む狼の侵入防止に役立つ柵ではあるが、この柵にはもう一つの意味があった。
曰わく、カウヘンヘルム家の欲望の果て。
召喚師として、やってはいけないことをした者がいたらしく。以来、それは森に住み、カウヘンヘルム家当主の命を脅かす存在となっているとか。
そんな悪魔が住む森のため、一切近づいてはいけないとリヒルトから注意されていたのを、トトは忘れていない。
この柵(境界線)は、悪魔が内側に入って来ないための意味もあるらしい。
「……、もど、らなきゃ」
リヒルトに召喚された従僕としての本能が出てきたが、それは違うと自分に優しくしてくれた彼を思い出す。
戻る足を止めた。
「私が、このままいたら……」
リヒルトが、より傷つくのは目に見えている。
そうして、その血を飲ませようとあらゆる手段を用いてくる。
グランシエル家に情があったわけではない。けど、あんなことを笑顔でする彼を見ていられなかった。
彼には、あんなことをしてほしくない。
私のためだとしても、あんなこと、一度たりとも望んでないのにーー
「ただ、愛してほしかった……」
家族に求めるのは、それだけ。
他は何も要らず、ついぞ、叶わぬことになったが、自分にはリヒルトがいるのだからそれだけで満たされた。
過去のことなど、薄れてしまうほど、リヒルトのそばが心地よかった。
吸血鬼でなくとも、人間でなくとも、愛してくれる彼に応え続けていきたかったのに。
「もう、やだぁ……」
血塗れになる彼を作りたくはない。
血を流せば、人は死ぬ。人間は短命で脆い生き物なのに、彼は更に寿命を縮めるような真似をしている。いくら死ぬ気はないとしても、自傷が自殺に繋がってもおかしくはない。流さなくてもいい物を流してしまっては、いつかは尽きてしまう。
『ぜんぶ、君のため』
そう彼は言うが、トトにとっては『私のせいで』に変換されてしまう。
だからこそ、『私がいなくなれば』に繋がるのだった。
止まった足が、柵の向こう側を目指す。
飛び越そうと、羽を動かした時ーー森林の奥から一匹の羊がやってきた。


