(五)
二日目。
羊たちを牧草地に放った時、女が来た。
厳密に言えば、もう一時間近く前から、羊舎の外よりリヒルトの様子見をしていた訳だが、心の準備が整い、リヒルトに話しかける。
「私も、手伝います!」
「要らない」
一時間かけて整えた心の準備が、一秒で粉砕された。
羊舎の隅っこで落ち込む女。黙々と羊舎の掃除ーー羊たちの糞を台車に乗せて行くリヒルトの手は止まらない。
「ここに、いない方がいい」
けれども、思ったことが口に出てしまった。
考え持たずに言ったため、これでは、元の世界に帰れとの意味に聞こえるかと、付け加える。
「二階のあの部屋、好きにしていいから。ここ、匂いが酷いだろう?」
いくら掃除をしようとも、染み付いた獣独特の臭いは消えることはない。
慣れない者が長くいれば、たちまち気分を害する糞尿の匂い。これが仕事だと思わなければ、家畜の世話などやっていられないだろう。
そんな、リヒルトの気遣い。
リヒルト自身は、気遣いとの自覚もないが、受け取った女は首を振って声を上げる。
「平気です!だから、手伝わせて下さい!」
隅っこからリヒルトの近くに。さすがに、作業の手を止めてしまった。
「わ、私に出来ること、何でもやらせて下さい!ご主人様!」
「……、ご主人様って」
主従関係が成立する仲ならば、そう呼ばれるのもおかしくないが、背中がむず痒くなる。
今までの吸血鬼は、カウヘンヘルム家の後継者として、当主様なりと呼ばれていたが。
「僕を見る目が違うんだね、お前は」
むず痒くなる原因はこれかと、夕日を埋め込んだかのような瞳を見る。
従事する吸血鬼は皆、カウヘンヘルム家(リヒルト)ではなく、彼が精製する薬を見ていた。
カウヘンヘルム家に至っては、そんな吸血鬼の足元を見ていた。
しかして今、それらが成り立たない。
裏表ない瞳の接し方に戸惑う自分。
人付き合いを放棄して、辺境の地に居続けた代償か。考えている内に、女がスコップを指差し、「これで片付ければいいんですか、ご主人様」と聞いてきたものだから、たまらず言う。
「リヒルト」
「へ?」
「リヒルト・カウヘンヘルム。ご主人様じゃなくて、名前で呼んでほしい」
意味を理解した女が、何度も頷く。
「カウヘンヘルム様!」
理解したのは一割程度らしい。
違う、と言えば、少しの間。
「リヒルト様!」
「お前、頭弱いねぇ」
「じゃ、じゃあ、リヒルトーーさん?」
呼び捨てでも構わないのだが、主従関係を崩さないためにも、それが妥当かとリヒルトは頷く。
「ワン!」
「あの、リヒルトさん」


