とろける恋のヴィブラート

 今か今かとワイワイ賑わっている客席を心のどこかで期待していた。それど、まったく逆の状況に、奏は信じられない気持ちで指先が震えだした。


「御堂さん……」


 小さく御堂の名前を呼ぶと、その気配に気づいたのか、御堂はヴァイオリンを止めて立ち尽くす奏に視線をやった。


「そこで何してんだ。開演時間だろ」


 時刻は一時を指していたが、客席には誰もいない。


 天才ヴァイオリニストと呼ばれている御堂カイリが、誰もいない客席を目の前に、たった一人でステージに立っている。そんな姿を見て奏は、御堂に屈辱的な思いをさせてしまったという罪悪感で押しつぶされそうになった。


 もし、この世に神がいたら、“少しくらい努力を認めてくれてもいいのに”ときっと責めただろう。


「開演時間でも、誰もいませんね……」


 情けなくてそんな言葉しか出なかった。作り笑顔も引きつってしまう。けれど、御堂はそんな奏を優しく見つめると言った。


「客はいる。俺の目の前にな」


「え……?」


「まぁ、誰も来なくても、お前に俺のヴァイオリンを聴かせてやることはできる」


 その瞬間、塞き止めていた涙が溢れ出しそうになって、慌てて奏が空を振り仰いだその時――。