彼が薄明かりの中、部屋の隅で黙々と顕微鏡を覗いている時など同じ部屋にいるのに、教授室に捜しに行ってしまったこともあった。
ゼミの学生などは、実験室の中央のテーブルで茶菓子を食べながら、教授の良からぬ噂話をしていて、後ろに来た彼にしばらく気付かず、罰の悪い思いをしている光景を何度か見た。
しかし彼はそんなことには無頓着で、何も意に解さずという顔をいつもしていた。
彼は人間嫌いという噂だったが、僕はそれとは一寸違うと思った。
人間の持つ不特定要素を理解することの無意味さを知り、または放棄し、不特定要素の入り込めない化学の世界に没頭し、現在の偉大な業績を残し得たのではないかと勝手に想像してしまう。
つまり彼なりの解釈で、無駄なことには時間を惜しんでいることだけなのだろう。
そしてその日も僕は老人性痴呆症治療薬の研究を手伝っていた。
この病気は未だに原因自体が不明であり、脳の神経細胞が不自然に老化するためなのか、遺伝子の突然変異なのか、現象自体がよくわかっていない。
しかし教授は、病気の人が必ず持っていて、しかも病気の進行と共に確実に増える、APPと呼ばれる脳細胞の中のβタンパクが繊維化して出来る老人斑(アミロイド・βタンパク)に解明のいとぐちが隠されていると考えているようで、今日も電子顕微鏡を使い、ミクロン(千分の一ミリ)の世界を覗いていた。
僕は教授の指示で、単シロップ抜きのペプシン・リモナーゼを作っていた。
彼は聞かないかぎり教えてくれない性格なので、この試薬の利用目的も教えてもらってなかったが、たぶんAPPを分解し、解析するのに必要なのだと思えた。

