知っていて知らない振りをするというのは、結構な精神力が必要なんだなと実感した。

 もっとも、それも数年で慣れてしまった。

 僕が願っている通りに逃げ延びているなら、生きていることを何かで伝えようとするかもしれない。

 しかし、彼がそのリスクを考えない訳がない。

 彼は優しいから、きっと真っ先に僕と妻のことを思うだろう。

 出来るならば、もう一度だけ会いたかった。

 けれど、彼が無事でいるなら僕はそれでいい。

 いっそ忘れてくれて構わない。

 マークはゆっくりと目を閉じて、小鳥のさえずりを楽しむように耳をくすぐる鳴き声に聞き入った。

「あら、どなた?」

 玄関の方から妻の声がする。客でも来たのだろうか。

「ご主人はいらっしゃいますか」

 青年の声だ、この声は初めて聞く。

「ええ、リビングにいるわ」