蒼いラビリンス~眠り姫に優しいキスを~


拓郎は今まで、風景写真が専門で人物は撮らなかった。


いやむしろ、『撮れなかった』と言った方が正しいかもしれない。


当たり前だが、人間は、建前と本音の顔を持っている。


優しい笑顔の奥底に、ドロドロとした醜い感情を隠し持っていたりすることも、ままある。


そういう物を敏感に感じ取ってしまうことが、拓郎が人物写真を撮らないでいる一番の原因だった。


簡単に言えば『人間があまり好きじゃない』というところだ。


それをカメラマンとしての『未熟さ』だと言う者もいたが、『撮りたくないないものを撮らないで良い権利』はあるはずだと、拓郎は思っていた。


だが決して『人物を撮ること』に興味がない訳ではない。


拓郎がカメラマンになろうと決意したとき、粘りに粘って師事することが出来た写真家の黒谷隆星(くろやりゅうせい)は、風景写真の第一人者だが、人物写真でも定評がある。


流星の人物写真は、見る者の心を揺さぶる素晴らしいものだ。いわば人間の清濁両方を写真に写し出す。


それが人間としての円熟味を表したものか、才能のなせる技か、おそらくはその両方だろうが、拓郎にはまだ備わっていないものだ。


その自覚がある拓郎は、もしも『これだ!』と思える被写体が現れれば、人物写真を撮ってみたいと思う気持ちもどこかにあったのも確かだった。


そして今初めて、心底『撮りたい』と思える被写体が目の前に現れたのだ。


千載一遇のチャンス。


一度や二度断られた位で、『はい、そうですか』と、簡単に諦める訳にはいかない――。


拓郎は、必死だった。