でも、紫族はいなくなっても紫姫はいなくならなった。それは、この世界を救った紫姫以外にも異世界に紫姫がまだ存在していたからだ。


紫姫は、世界にひとり。紫姫が子供を産めばその子供も紫姫になるが、世界に紫姫はひとりだけでいい。だから産まれた子供は力が強くなる前に異世界……地球へと転送される。例え紫姫の子供が二人いようが三人いようが長女が紫姫を継ぐ習わしになっていた。

そして、転送するには父親の命が必要だったらしい。なんでこんなにも命が粗末に扱われなきゃならないのか俺には理解できないけどな。


話を戻すが、紫姫がいなくなれば、地球で生活していた紫姫候補が再びこの世界に呼び戻されるのは必須。しかも地球とこの世界の時間の流れは同じじゃない……話によると地球の方が早いらしいが……だから結果的に、複数の紫姫候補が地球で順番待ちをいたことになる。それに、母親の次に娘が絶対に紫姫になるとは決まっていなかったらしいから、地球にいた候補たちは年齢がバラバラだったそうだ。

そして、紫姫は事実上、この世界を救った英雄ただひとり。紫族も誰もいなくなったしな。でも地球で順番待ちをしていた紫姫候補がどっとこの世界に召喚されてえらい騒ぎになったらしい。ヒステリーを起こす人もいたそうだ。

まあ、いきなり文化も環境も全然違う異世界に放り込まれて混乱しないやつはいないだろう。だが、紫姫が元紫姫候補たちを宥めて事なきを得た。そして紫姫は彼女たちに頼んだんだ。

地球の科学を、この世界で復元しよう、と。

紫姫はもともとエリートが多かったらしく、地球での元候補たちの立場は上の方だったようだ。先生もいれば科学者もいたし、医者も、音楽家も、作家も。とにかく博識な人が多かったそうだ。エリート、という言葉も彼女たちからもたらされたものだ。それまでのこの世界の言語のバリエーションが増えてたいへんだったらしいが、若者を中心に浸透していき、今に至る。

それに、紫族には特別な力があったそうだ。それは地球にいる間は使えなくて、主にこの世界で発動できたらしい。記憶を書き換える、未来を予見する、瞬間移動など様々。でも戻って来た元候補たちはまったく力が使えなかった。それを本人たちは気にしていたけど、紫姫は気にしなくていいと主張していたそうだ。

力があれば、また力と力のぶつかり合いや、戦争、殺し合い……

それらが再び起こってはならないと紫姫は願い、後世に残し、こうやって俺たちの教科書に載せられて広く知らしめされている。



「だが、何も言えないぞ」

「夜だからな。しかし……細部まで見えない方が逆によかったのかもしれんぞ」

「なぜだ?」

「こんなものが空を飛び、そして世界を壊そうとしていたとは……と畏敬の念を感じたかもしれん。それに、あまり詳しく覚えてもらっては困る。世界の均衡に関わることだからな……本来ならば、貴様らはここにいるはずはなかったのだから」

「……俺たちってここにいていいんですかね?」

「いない方がいいかもな」

「何を今さら自己嫌悪に陥っているのだ。帰る手立てもないというのに」

「……そうだった」

「来ないのならついて来なくてもいい。私はこれから湖に沈んでいる『島』へと赴く。勝手にしろ」

「あ、待てっ」



俺が止めるもあいつは湖へと足を踏み入れた。徐々にその身体が星空のような水面に埋まっていく。

水着を着ていてよかったと心の中でほっとしているのも束の間、あっという間にあいつの身体が湖の底へとゆっくりと沈んでいった。

先輩と慌てて湖へと走るも、俺たちはおっとっとっと……と思わず立ち止まる。


……何が起こった?



「な、なんで身体が沈まないんだ?」

「足の下に感触はあるのに沈まない……どうなっているんだ」



つまり、俺たちは身体が水の中に沈むと思っていたのにあろうことか水面を走っていた。何もしていないのに、だ。

おかしい、と首を傾げていると、いきなり足首を何かに掴まれる感覚がしたかと思うと音を立ててボチャン!と落ちた。息を整えるのもままならず頭の天辺まで沈んでしまった。

ブクブクブク……と息を吹こうとしたら、息が普通にフーと出ただけだった。

……水がない?!



「あ、先輩!」

「水の中……だよな?」

「アハハハハ!なんて間抜け面をしているんだ貴様らは!」



隣にはぽかーんとしている先輩、目の前には抱腹絶倒しそうな勢いで笑っているヴィーナス。

何が起こったのかというと、引き摺り込まれた俺たちは湖の中にできている大きな気泡の中に座っていたのだ。湖に突如現れた大きな気泡……それはたぶん、ヴィーナスが作り出したのだろう。



「あーおかしいぞその顔……腹筋に悪いっフハハハハ!」

「……ムカつく~!」

「……ふう。悪いな、驚かせてしまった。我々『神類』には力があることは知っているな?この世界に来てからというものの力は弱くなっていたのだが……死んでからはもとに戻ったのだ。だから貴様らのように超越した力、魔法に似たものを扱うことができる」

「……俺たちの力はおまえたちの名残なのか?」

「さあな。確かに私たちの力を分け与えた人間……シーナのような『適応者』の血が貴様らには流れている」



『適応者』とは、魔物が独自に造り出した空間……『影の世界』と普段生活している世界……『現(うつつ)の世界』とを自由に移動できる人間のことを指す。

『適応者』の生まれ方は簡単だ……『神類』の影の一部を人間の赤ん坊に分け与え、『影の世界』へと侵入できるようにさせただけ。『我ら』は『適応者』を侵入させて『奴等』を倒してもらおうとそのような行動を取った。

ちなみに、その『適応者』を密かに集めていた組織があり、それは『ブランチ』と言った。普通の人間もいたが、『奴等』が人間に悪さをしたときに撃退していたのは主に『ブランチ』の『適応者』だった。そこには伝説の四人も所属していたそうだ。『適応者』のみを集め育成していた孤児院もそこにはあったらしい。



「ほら、見えるか?あれが『島』だ。私も実際に見るのは初めてだ」

「初めてなのか?」

「上からは見ていたが、実際に見るのは初めてなんだ。生きていた時代が違うからな」

「なんか、話がデカいな」

「生きる教科書がここにいるんだもんな」

「教科書か……複雑な心境だ。言っただろう、歳月が一瞬だったと。私からすればさほど昔の出来事には感じられん」



気泡は降下し続け、目の前には何か大きな黒い物体があるような感じがする。でも夜だから俺たちからは何も見えない。

『島』には確か白い建物があったと聞くが……色の区別がつかないぐらい闇は濃かった。

しかし、こんなところに何の用があるんだ?

そう思って聞こうとしたら、先輩が先に聞いてくれた。



「そもそも、ここになんの用があるんだ」

「……まあ、知られても別に構わないか。ここにはあるものが忘れ去られている」

「あるもの?また言葉を濁すのか?」

「まあ待て、時間はたっぷりあるんだ。貴様らは指輪を知っているか?」

「そりゃ、な」

「ただの指輪ではない、紫姫の指輪だ」

「紫姫の指輪?」



そんなのあったか?と先輩と顔を見合わせる。先輩も知らないようでかぶりを振っている。

そんな俺たちの様子にヴィーナスはあからさまに気の毒そうな顔をした。



「なんだ、知られていないのか?あの男に口封じをされたか、あるいは自粛したか……」

「なあ、前から思ってたんだけどよ、あの男って誰だ?」

「知りたいか?知ったが最後後戻りはできんぞ」

「まあ、大方見当はついている」

「ほう……そこの色男、申してみよ」

「……フリード、だろ」

「ご名答。どこで知った?」

「人生の先輩が以前ちらっと話していたんだ」



フリード?誰だそれ。それに人生の先輩……は兄貴のことだろうな。あいつは口が軽いんだか頭が軽いんだかよくわからないときがある。しかも言ったことを覚えていないのはたちが悪い。俺のことも先輩に話したようだが本人は忘れていた。

他にも口走ってないだろうな?



「フリードって誰のことですか」

「あー、教科書には載ってないんだったか。ミスった」

「フリードとは、この世界や他(た)の世界を創造した神のことだ。ちなみに、私たちがいた世界はフリードの生み出した世界ではないがな」

「神?!いんのかよホントに」

「私が生存していた時代にも、紫姫がいた時代にも姿を現している。あの男の存在が隠蔽されているとなると……歴史の重要機密のようだな」

「なんで先輩は……いや、兄貴は知ってたんですか?」

「それも文献を読んだことのある人から聞いたとか……」

「誰だよそいつ!」

「文献には残っていて教科書には載っていないのか。おかしな話だな。まあ、全ての人間が神がいると確信してしまえば神という存在は軽視されるだろう。しかもあんなに軽い性格だと知られれば幻滅されるだろうな」

「それをフリードが嫌ったってことですかね……」



なんだよ軽い性格って。自分に落ち度があるからそれを知られたくないだけじゃねーの?



「話が脱線したが……紫姫の指輪はこの『島』の鍵だ。鍵によって光線が放たれる仕組みになっていた。

当時光線を放ったのは、紫姫の母親の妹で紫姫を育てた者だ。長女が死んだとき、一番紫姫に近いと指輪に判断され光線を放つことができた……命と引き換えにな。もしそのときその妹がいなければ紫姫は自分の命を犠牲にしていただろう」

「で、なぜその指輪が今必要なんだ?そもそも忘れ去られているのならば掘り返す必要はないはずだ」

「予定が狂い始めてな……均衡が崩れてきているとも言えるか」

「均衡?世界のってことか?」

「そうだ」



世界の均衡……さらに紫姫の指輪。それをあいつが手にしたとき、それは破滅への序章となるだろう。

あいつが開花すれば、禍も目覚める。



「なあ、もしかしなくても、今この世界はヤバい状態なのか?」

「かなり、な。予定が一年も早まっている。さらに早まる危険性も出てきた。一刻の猶予もなくなる前に、こうして手を打とうとしているんだ」

「やっぱり……」

「何の話だ?」

「先輩、この際だから言っておきます。あいつは……ミクは、紫姫の末裔です」

「紫姫の末裔だと?その存在は確認されていないと聞くが」

「それこそ、隠蔽していたからです。それを母親が望んだから」

「……」



先輩は状況を飲み込めずにいるのか、顔をしかめたまま黙り込んでしまった。


あいつには、自分自身でも知り得ていない逃れることのできない使命がある。それを知るのは、スリザーク家のみ。たぶん父親も知らないはずだ。巻き込んでしまっては堪らない、と母親が隠していたのだ。

でも母親はいつこの世から去ってもいいように、スリザーク家に秘密を余すことなく全部暴露した。

それを、今から説明しよう。