なんでこうも時間に迫られなければならないのだろうとやさぐれながらユラの後を追う。

数学講義室は先輩たちの階にあるから少し気が引ける。でも皆移動しているからいなくて助かる……ああっ、あと1分!

曲がり角を曲がったとき、誰かとぶつかりそうになった。慌てて急ブレーキをかける。でも相手は私に構わず素通り。



「遅刻するぞノロマ!」

「……ヤト君!」

「走れよ!」

「あ、待って待って」



ぶつかりそうになったのはヤト君だった。後ろに少し顔を向けながら注意された。

……なんでここで落ち合うんだろ。どこ行ってたのかな。

でもそんな思考を振り切ってまた走り出す。まだ鳴らないで!


ヤト君が先に入って開いたままになっている講義室のドアになんとか滑り込んだ。そこでちょうどチャイムが鳴る。



「ぎ、ギリギリセーフ……」

「早く座りなさい」

「あ、はい……」

「ミクちゃんこっちこっち」



胸を撫で下ろしてとぼとぼと歩いていると、ユラが手招きをしていた。やっぱり足速いな。また一番前だけど、まあいっか。女の先生に急かされたしね。


よっこしょと腰を下ろし安堵のため息を吐く。走りまくって疲れたわ。



「では、授業を始めましょう。まずは皆さんのレベルがどのくらいなのか知りたいので、小テストから始めます」



……マジかいっ。今の酸素を補給することだけで頭がいっぱいなんだけど。計算、計算だけにしてせめて……文章題はキツい。

隣のユラをちらっと見ると、その顔はひきつっていた。数学、本当に嫌いなんだね。


プリントを配り終えて先生が合図を出した。いっせいに鉛筆が紙に削られていく音が響く。

内容はシンプルな計算問題だった。そこまで難しくはないけど、ケアレスをしやすい問題ばかりだ。

掛け算を先にする、とかね。油断したら間違えそう。見直し見直し。


止めの合図が入って鉛筆を机に置いた。とにかくミスがないといいんだけど。

プリントを回収されて一息つく。



「ミクちゃんできた?」

「……まあまあ?」

「まあまあじゃなかったら怒るし」

「いや、なんでよ」

「できる人のまあまあはできない人の超できた、になるんだから」

「なにそれ」

「ホントにそうなんだからっ」



そんな力説されてもなぁ。拳をそんなに握り締めてたら鉛筆バキッて折れるよ。まだ新しいんだから折ったらもったいない。


前では先生がとんとんとプリントを教卓で揃えていた。先生の妖精はどんななんだろう。気になる。

几帳面そうな先生だからなぁ。赤い眼鏡かけててポニーテールで黒いスーツ。いかにもデキます、みたいな。ここのどこか隅の方で邪魔にならないようなところでこっちを見てるかも。

それはそれで……怖いか。



「では、今日は───」



はきはきとした声が響く。黒板の字も几帳面だ。一切列が乱れない。右に上がったり蛇行したりしないのだ。見やすくていいけど、どうやったらあんなに綺麗に書けるのか不思議に思う。

数字も印刷されたようにすべて同じ字形。イコールもまっすぐ。幾何学的な何かを計算して黒板での文字の位置を把握してるとか?気になるなぁ。妖精も現れないしなぁ。いないと寂しく感じる。

なんか、気になるいろいろと。



「円周率を答えてもらいましょうか……では、スバル・マーカス」

「は、はいっ」



スバル・マーカス……って誰だろ。わかんないや。声は男子だったな。裏返って高かったけど。



「立ちなさい」

「は、はいっ……」



いきなり起立した男子を皆が見る。

……あ、あの男子か。ヤト君の隣で緊張しすぎてた男の子。もう学校には慣れたのかな。

スバル君は皆に見られてもじもじと落ち着かなかった。きっと見られて恥ずかしいのだろう。



「答えなさい」

「えっと……何桁までですか?」

「何桁まで言えますか?」

「取り敢えず……20桁ぐらいです」

「では、言える範囲まででけっこうです」

「はい。3.1415926535897932384……です」

「素晴らしい。座っていいですよ」

「はい……」



終始自信無さげだったけど、やったことはかなり凄い。周りから称賛の声が広がる。そこまで覚えられないよ私は。隣のユラなんか聞きとれたのかも定かじゃないよ。馬の耳に念仏みたいに呆けてるし。



「では、今の数字を使って球の体積を求めてもらいます」

「げっ……」



今のは私じゃないよ。ユラだよユラ。先生ちらっとこっち見たんだけど。地獄耳なのかな。怖かったなあの目。ギロッてしたよ。

先生は黒板に数字の羅列を書いた。球の体積だから3分の4×半径の三乗×円周り……つ……

鬼かっ!先生は鬼なのか?しかもなんで体積なんだ!表面積だったら3分の4じゃなくてただの4だし、半径も二乗で済むのに……


めんどくさい。正確に計算できるのかも怪しい。ていうか無理でしょ。頭痛くなりそう。

でも、幸い半径が3だからよかった。これが大きい数字だったら死んでる。

……すでに隣で灰になってる人はいるけど。



「ユラ。現実放棄しちゃダメだよ」

「夢を見たい……」

「夢を見るために寝て現実逃避もダメだってば。先生にペケつけられるよ」

「ペケ……」

「減点ってこと。赤点になっちゃうかもよ」

「そ、それだけは勘弁……」



ユラの身体を揺すって現実に戻してあげた。ペケ。なんか可愛いよね響きが。意味はかなり残念だけど。


私は黒板を見ながらノートに向かう。ええっと半径は3で円周率は3.14159……ええい、長いわっ。黒板に一列じゃ入りきれてないし。

これじゃまるまる授業潰れるんじゃない?それが狙いなのか、もしかして。意外とやる気ないのかなあの先生は。


必死に鉛筆を走らせていると、ペタリと机の下から手がのそりと現れた。見事な五本指。でもそれは人間の手じゃない。鋭利なかぎ爪が……

またのそり、とそれは動いて頭が見えた。私は目が点になる……っ?


……先生の妖精がこいつなのか。予想外。予想外すぎる。ていうかイメージしてたのと全然違う次元なんだけども。もっとこう……言っちゃ悪いけどキツネとか、ね。


私が出会ったのは……ナマケモノでした。


バリバリのデキる女教師かと思いきや……可愛いナマケモノ。

そいつはのそりと机を這い上がりひとまず休憩。はあ……とため息が聞こえてきそうだ。しかも親父座り。猫背で足を開いてでれーんとしている。だらーんじゃなくて、でれーん。それぐらいくにゃりとだらしない。

……あ、だらーんってだらしないから取ったのかな。


……じゃなくて、計算だ計算!ナマケモノ見てたら脳みそも怠けそうだよ。取り敢えず無視だ無視。気づかなかったことにしよう。

そう言えば、あんまりにも動かないからナマケモノって身体に苔生えてるんだっけ……


だ、か、ら、気にするな!計算に集中しなさい!目の前の問題に集中するんだ!



「さっきから何百面相してるの」

「……人の顔見ないで問題やりなよユラ」

「だって目がチカチカしちゃって……」

「言い訳無用。初日からだらけちゃ先が思いやられるわ」

「そこっ!お喋りしない!」

「「はい……」」



ぶつくさと喋っていると先生に注意された。やっぱり地獄耳なのかな。ナマケモノって耳いいんだっけ?そもそも耳どこよ。

と思い立ってナマケモノの方を見たがもぬけの殻だった。青い動物がどこにも見当たらない。

あ、ナマケモノは青だったよ。ナマケモノなのに水ってどこにも共通点ないけどな。


これで集中できると思って安堵していると、膝辺りに重さを感じた。そしてガッシリとスカートを掴まれる。

……まさか、ね。

スカートの裾を直すふりをして左手を下げてみると……弾力あり。ナマケモノ……が膝に乗ってる?!しかもスカート掴まれてるし!変態かおまえはっ。

触って少しいじるがびくともしない。寝てないよね。寝られたら困るわ。集中できなくなるわ。

……ていうか、完全に集中力切れてるけど。


私ははあ……とため息を吐いてナマケモノを無視することに決めた。皆には見えてないんだから気にする必要もないし。

膝が重いのは走ったせいだ。うん、そうしよう。


ナマケモノの存在を頭から振り切って左手をノートに乗せる。そして、鉛筆をひたすら走らせた。ナマケモノから早く遠ざからないと!


しばらく存在を忘れて計算をしていたんだけど……非常事態発生。こいつはやっぱり変態だった。

寝惚けているのか、なんと私のスカートの裾があの長いかぎ爪に引っ張られているではないか!ちょい!捲れるわバカッ!しかもそのまま頭を掻こうとしているのか腕を挙げている。

……マジで捲れる。万事休す。いくら人目に入りづらいところとは言え恥ずかしいぞそれは。捲らないでっ!パンツ見えるってば!


私は無言でひーひーと悲鳴を上げていると、いきなり膝にあった重たいものがずるっと下に落ちた。

……寝惚けてそのまま落ちたか。それならありがたい。スカートが捲れる心配もなくなったし。


私はナマケモノがいなくなって緊張がほぐれ、なんとか問題にまた集中することができた。



……まあ、案の定それだけやって無情にもチャイムがなっちゃったんだけどね。