「ううん、いいの。トレー持ったままじゃ、ドア開けるのも大変でしょ?」

「はい、片手ではちょっと……。気づいて頂けて助かりました。――さ、どうぞ」

 彼は入室すると、まずは第一声でわたしの気遣いに感謝の気持ちを伝えた後、デスクの上にピンク色のコーヒーカップをそっと置いた。
 カップからは湯気とともに明らかにインスタントのものとは違ういい(かお)りが漂っていて、彼がコーヒー豆から(こだわ)っていることがありありと窺えた。

「すごくいい薫り……。ありがとう。いただきます」

 わたしは熱すぎず(ぬる)すぎない中身を一口すすってみた。すると、ちゃんとわたし好みの甘さになっていて、それでいて丁寧に淹れたらしいコーヒーの薫りがちゃんと楽しめる、上質のミルク入りコーヒーになっていた。
 父も大のコーヒー好きで、わたしも普段からコーヒーには親しんでいたけれど、これだけ美味しいミルク入りコーヒーを飲んだのは初めてだった。

「美味しい……! コレ、すごく美味しいよ! わたしも、こんなに美味しいコーヒーは初めて飲んだわ。きっと豆にも拘ってるのね」

 あまりの美味しさにテンションが上がり、興奮ぎみに感想を言ったわたしに、彼はちょっと照れたように答えてくれた。

「ええ、まあ。実家の近くに、懇意(こんい)にしてるコーヒー専門店がありましてね。そこで焙煎(ばいせん)して()いてもらった豆を分けて頂いてるんです。もちろん会社の経費では落ちないと思うので、僕の自腹です。ここまで来たら、もう仕事というより僕個人の趣味を会社に持ち込んでるようなものですね……。お恥ずかしい」

 そこまで言った後、彼はすぐ真顔になった。

「でも、それはすべて、絢乃会長に美味しいコーヒーを飲んで頂くためですから」

「桐島さん……」

 わたしを喜ばせるために妥協(だきょう)を許さないという彼の真摯(しんし)な姿勢に、わたしは心打たれた。彼ならきっと、仕事の面でも誠実にわたしを支えてくれるだろう。……わたしは自然とそう思えた。

「ありがとう! これからもよろしくね!」

「はい! ――ではさっそくですが、会長には覚えて頂かなければならないことが……。このパソコンにログインするためのIDと、パスワードなんですが」

「IDって、IDカードのコードでしょ? パスワードは……、付箋で貼り付けられてるコレね?」

 起動させたパソコンのキーボードをわたしが手早く叩くと、彼は感心していた。

「さすがは会長、お若いですね……」

 彼の反応にわたしはクスッと笑い、こうしてわたしの闘いの日々は、上々のスタートを切ったのだった。