「貸して」
 海知先生が私の手から雑巾を取り、上の方を楽々と拭いてくれる。

 今まで生きてきて、見上げられてばかりだと思える長身は姿勢もいいし、長い手足は持て余し気味に伸びて、天井まで拭けちゃいそう。

 私みたいにソファに乗らなくても拭ける、スタイル抜群の長身って。おなじ人間とは思えない。
 世界に羽ばたくモデルみたい。

「チェイスに噛まれた足どうだ?」
 見惚れていたら、突然の質問が飛んできたから、頭の中にはてなマークが飛び交う。

「足だよ」
「足」
「そう、足だよ」
 振り向かないで、淡々と拭いている。

「おかげさまで痛くありません、幸せホルモンいっぱいだから」

「腫れは?」
「ないです」
「星川は、あっけらかんとしてるから、痛みなんか感じないんだろうな」
「失礼な」
 アハハハハって、肩まで揺らして笑っちゃって。

 獣医の性格なのかな、すんごい狭い四隅の隅々まで、徹底的に磨ききっている。

「で、その幸せホルモンって別名だろ? なにが、分泌してるから痛みが和らぐんだ?」

「オチチトチン」
「相変わらずの舌っ足らずだな。よくオキシトシン覚えてたな」

「海知先生の言葉だから、忘れませんもん」

 海知先生といられるだけで、幸せホルモンがたくさん溢れるから、チェイスに噛まれたって痛くない。

「ピッカピカ、凄くきれいに拭きますよね、獣医にしておくのがもったいないです」

「チビなのに目線は上からきて、何様だよって思ったけど答えるよ。まだまだ獣医をやっていたいな」

「もう、これで手の届かないところはありません」
「それは、あっちへ行けと?」
「違いますよ」
 慌てて首を縦に振った。

「どっちだよ。これは、泉田先生に匹敵する天然だ。さてと、入院処置を片付けちゃおう」
 海知先生が、コリを解すように首を何度か振って、ぽきぽきと音を鳴らした。

 スクラブ越しにもわかる、厚く板みたいに張った背筋がスクラブを引き立てる。

 かっこいい。背中まで抜かりなく、かっこいいってどういうことよ、完璧。

 入院室に行くと甘えん坊のマキオが、足に絡まりついてくる。

 マキオ、今は遊べないんだよ、猫の手も借りたいほど忙しいの。

 患畜の世話と海知先生の介助が終わって、いざ外来へ。

 今日、最初の患畜は、Mダックスの棚尾チャカちゃん。
 問診をしようとカルテを取ろうと思ったら、美丘さんが、そっと私の手を制止する。

「私が入るからいい」
 私に話しかけてから、美丘さんがカルテを持ち、診察室に行きかけた。

「星川にやらせてください」
 振り向く美丘さんの顔は、不安げな表情を浮かべている。

棚尾(たなお)さんは、非常に気難しいですから、私が」
「いいから、星川にやらせてください」