懐かしい匂いが坂の上から流れてきて、ふと顔をあげた。

 右手側、等間隔に居並ぶ電信柱、迷路を思わせるように左右を固めた、家々の塀。

 緩やかに斜を見せる道の向こうから、ふわふわりと……いや、そよそよとその匂いは流れてきていた。

(なんだっけな)

 どこかの、いつかの香りにほだされて、くわえていた煙草を携帯灰皿に押し付けた。

 お陰でより強く匂いを感じられる。甘い、仄かに喉をあたためる香りだ。
 たぶん、花かなにかだろう。

 この辺りは、住宅街だ。もう五年も住んだから、それくらい重々承知してる。
 もちろん、こんな匂いを醸し出すものが、この辺りにないのも、この五年で。

 急に、危うい誘惑な気がした。
 妖艶な美女が手招きしているような、はたまた、天使の仮面を被った悪魔が微笑みかけているような……そんな誘惑だった。