「なんだい、あんたさっきから」
 舞台の開演間近。
 ヴィルマは控室として張ったテントの周りを行ったり来たりする挙動不審な少年を見兼ねて声をかけた。
「!!」
 びくり、と肩を震わせた少年にヴィルマは息を吐く。
「取って食いやしないよ、安心しな」
 迷子ではなさそうだ。明らかに目的を持って少年は此処に来ている。
 この年頃の子どもが舞台周りをうろつくこと自体はよくあることだ。好奇心かあるいは、既に完売した舞台のチケットを求めて。時には、アルタイル座への入団を希望する子どもだっている。
 だが目の前の少年は、そのどれとも違う気がした。
「……会いたいやつでも居るのかい?」
 生き別れた親に会いに来たというような様相にヴィルマはそう問うた。
 少年は顔を上げて目をしばたいた。――どうやら、これも違ったようだ。
「えっと、あの……」
 はっきりしないね、と言いかけて口をつぐむ。
 怯えるように顔色を窺う人間を急かすのは気の毒に思えたのだ。
 実際は一分一秒も争う程、時間に追われているのだけれど。
「お姉ちゃ……えっと、エナ、さんが此処を訪ねるようにって……」
 飛び出た名前にヴィルマは眉を上げる。
「エナ? エナが此処に来るように……ああ! あんたもしかしてさっきの……!」
 ヴィルマはこの少年が、エナが追いかけたと思われる貴族への奉公者の列に居た一人だと気付いた。
 人の名や顔を覚えるのに長けているヴィルマであっても咄嗟に気付けなかったのは、身なりだけでなくその顔つきが全く違っていたからだ。
 怯えているが、空虚ではない。
 少年は辺りに関心を持ち、知ろうとしている。そうでなければ人の顔色を窺うわけがない。
「この短い時間で随分見違えたもんだ。で、エナがなんだって? いや待ちな、もう開演まで時間が無い。詳しい話は後だ。こっちへ来て座ってな」
 出演者がごった返すテントの中に招き入れて、隅っこの椅子に小さな身体を押し付けた。
 殺気立つ開演直前の控え室では、誰ひとり少年の存在など気にも留めない。
「奉公者の一人がどうして此処に来たのかわからないけどね、訳ありなんだろうってのはわかる。公演が終わるまで、とにかく此処を出るんじゃないよ。いいね?」
 ヴィルマはエナを素直で良い娘だと思っていたし、今でもそう思っている。だが以前ゼルとジストが匂わせヴィルマが笑い飛ばしたエナの問題磁石疑惑を、今また笑い飛ばせるかといえば、そうではない。
 以前エナが一人で残った屋敷が火事になり、そのあとに出回った手配書がどうも彼女の特徴と一致していることをヴィルマは知っていたのである。
 ただそれでもエナが悪党であるようには思えなくて、何か余程の理由があったのだろうと推察した。
 だが、悪党でなくとも数々の問題を起こしているのは事実。そんな娘の言葉により訪れた貴族への奉公者。
 真っ当な理由があるとは思い難い。
「わかったら返事をおし」
「は、はい……!」
 同じ釜の飯を食べた娘が持ち込んだ問題を放り出す気にはまだなれず、ヴィルマは少年の返事に頷いた。
「公演が始まったら、そこの隙間からこっそり覗いてみな。特等席だ」
 もうまもなく舞台の始まりを告げる音楽が奏でられる。
 ヴィルマは、自慢げに笑って少年に背を向けた。
 音楽と演劇は世界を平和にする。
 そう信じて半世紀弱。ヴィルマは血の流れない戦場へと赴くためにテントを潜った。