「えーと、川原さんからはブルーを基調にした生地でのオーダーだったよね…」

出来上がったケアキャップをネットで売る、という方法も今の時代はいくらでもあることはある。

しかし、ハンドメイドだと、作った人間がどんな人かわからないと嫌だと思う人も少なからずいることや、送料やら何やらを考えると、少しでも安く売るには、直接知っている人や、知人を介して売る方が合理的だった。

私のボランティア活動は、帽子作りがメインではあるが、時々、傾聴ボランティア、病院や老人ホームでの弾き語りの慰問、他にも、昔で言うところの孤児院で勉強を教えることも不定期にやっていた。

そして知人がどんどん増えたのだが、そのツテでケアキャップを売っているうちに、患者さんから直接「こんな帽子が欲しい」というリクエストも増えた。



母は、女手ひとつで私を大学にまで行かせてくれた。

金銭的な負担を考えると、私は自宅から通える国公立しか考えていなくて、運よく、まあまあの国立大に合格。

そのお陰で、教員免許も取得できた。

結局、教育実習を経験してみて、この内向的な性格から、教師という仕事は明らかに向かないと判り、教員にはならなかったのだが…。

しかし、教育学部卒のお陰で、ボランティアで小学生から高校生までの勉強をみることぐらいは可能だ。

母が孤児だったということもあり、私自身、結婚してからは道哉や義両親、義姉も大切な家族になったものの、肉親と呼べる存在はもう誰ひとりとして居ない。

だから、幼い日の母と似た境遇の子たちの手助けをしたかった。


実は、弾き語りを始めるきっかけも、道哉にあった。

道哉はいつもさりげなく、私が自分では気づかない、秘められた可能性を引き出してくれていたんだ…。