瑞々しい緑の葉を優しく避けて、その下の雑草を黙々と抜いていく。
今朝は珍しく太陽が出て、アシドニアの国土を穏やかに照らした。太陽は出ても肌を刺す寒さは変わらない。雪は溶けることなくそこにあり、短い春にはまだまだ遠い。
しかし今のエミヤは、ぽかぽかとした空気に包まれてまるで天国にいるような気分だった。
見上げればガラス張りの大きな天井と壁が見える。ドーム型の美しいそれは、もとは前々国王の寵姫が作らせたサロンだったという。ガラス張りでカーテンも張ることができ、陽射しが射せばとても暖かくなるそこは暖炉も必要ない。
造られた当時は、美しい婦人達が茶や談笑を楽しんでいたはずの場所を、アルマドは国王の権限で大改造して植物園のような温室にしてしまったらしい。
温室の鍵は三重になっており、繋ぎの小さな小部屋に顔の見えない見張りが一人立っている。
ここに通う許可をもらって数日経つが、エミヤは彼らの声も顔も見たことがなかった。
兵士が着るような制服を着ているが、温室と外を繋ぐ小部屋にいるせいか、今の時期にしては薄着である。この場所も鏡張りなので暖かいのだろう。帽子を目深にかぶり、顔は布で鼻まで覆われ、目元しか見ることができない。
交代要員もいるらしく、たまに違う体格の人が待機している場合もある。ここは比較的自由な場所なのか、本を読んで寛いでいる姿も見かけた。それをするのは布で顔を隠した男だけだと気づける程度には、エミヤはここに通っている。
彼らのことは知る必要も喋る必要もない、とアルマドに言われているので、エミヤはいつも挨拶だけして、邪魔にならないよう話しかけないようにした。
温室の世話を任せてもらうだけでも相当な我儘を言ったような気分なのだ。これ以上、アルマドの意に添わない真似はしたくない。
温室自体は王の居室の傍にあり、城でもかなり奥まった場所にある。立ち入りできる人間も限られていれば、そこが王の大切な場所だと周知されているので、王の不興を買いたくない人間はまず近づかない。
なので数日前からアルマドの部屋から出ることが可能になったエミヤの存在も、〝寵姫が王の温室で茶を楽しんでいるらしい〟という程度の情報しか城には巡っていなかった。とはいえ、全く人と会わないわけでもないので、噂が実体を持ったとし、エミヤは今少しだけ、城では有名人である。

(夜間の冷気除けの分厚いカーテンは引き終わったし、雑草を抜き終わったら水をあげて、傷んだ葉や茎がないか見て回ろう)
そんな噂など知らないエミヤは、汚れた手を払いながら充足した溜め息を吐いた。
夜の間、さすがに温室の空気は冷え切っても、土だけはほんのりと暖かい。この暖かさと柔らかさに触れることで、どれだけエミヤが癒されているかなど、見張りの彼にはわからないだろう。
(アルマドが温室を大切にしている理由、わかるなあ)
この穏やかな空気の中にいると、自分の心も緩やかになる。植物が呼吸し、薬草独特の匂いが頭を澄み渡らせてくれる。
エミヤの家にある小さな小さな温室とは比べ物にならないからこそ、こんな空気は初めて感じた。
窓越しに見える空もいい。青空であっても曇り空であっても。
(それに――)

「エミヤ」
声と共にガシャ、と重い金属音がした。
振り返れば、生い茂った植物を避けて美しい鎧がこちらへとやってきている。
「アルマド」
エミヤがこの温室の簡単な管理を任されるようになってから、日中、アルマドと会えるようになった。
今まで、アルマドが執務を終えて帰ってきてからの短い時間しか一緒にいることはなかったが、最近はエミヤが温室にいる時間に手が空くと、執務の手を休めて温室へとやってきてれくれる。
元サロンの名残でそのまま残してあったテーブルとソファに座り、この土臭い温室の中でアルマドとお茶をするのがエミヤの楽しみになっていた。
(きっと、私がもう一度友達になろうよって言ったから)
忙しい身だろうに、エミヤとの時間をあえて作ってくれる。
エミヤが不調で倒れて以来、エミヤの一言一言を、アルマドはきちんと聞いて、その想いに応えられるよう動いてくれるようになった。
(だめだなあ。私が嬉しいことばかりで、アルマドにはなんにもいいことがない)
だからせめて、このお茶の時間くらいは、アルマドにとって穏やかな時間になるようにしたいとエミヤは思っていた。
目の前でカップを用意し、元々綺麗に保管してあるそれを更に綺麗に拭き取り、目の前で用意した茶葉で茶を淹れ、エミヤが先に口にする。お菓子も同様に、アルマドが持ってきたものであっても、切り分けたケーキならアルマドに先に選ばせ、アルマドが口にする前に、エミヤが自分用に取り分けたものを一番に口にする。
ちなみにアルマドは、口の部分を取り外せる兜のときにのみ、エミヤの茶会に参加している。
(この程度のもので、どれだけ信用してもらえるかはわからないけど、〝私は貴方を害さない〟って気持ちが、伝わればいい)
そんなエミヤの想いに、アルマドは当然気付いていた。
そして何も言わずに、エミヤの好きにさせている。
エミヤは温室を行き来するようになって、初めて王の寝室に入り込んだ時の快活さを取り戻した。
そして、少し変わったようにも思う。
どこが、とははっきりとは答えられないが、アルマドはそう感じていた。
「今日はドクダミのお茶だよー」
アルマドが丹精込めて育ててきた薬草を、エミヤはうまく活用した。
薬草を育ててはいたものの、あくまで緊急用で活用するまでに至っていなかったアルマドとは違い、有り余る時間を利用して、エミヤは薬草を使った茶を作り、この温室でのティータイムで提供した。今は本を見ながら、薬草を使用した塗り薬を作っているらしい。
「……〝万能の種〟の育ちはどう?」
苦いが癖になるドクダミ茶を飲みながら、アルマドはエミヤに尋ねた。
「今までのアルマドの育て方がよかったから、順調に大きくなってるよ」
〝万能の種〟は、ある薬草の愛称だ。
この温室を案内された初日に、一番特別な薬草としてアルマドに紹介された。
源生地でも滅多にみられないという希少なそれは、例の植物学者から贈られたものだという。
ある植物の実に、特定の虫が寄生してでこぼこになったものを煎じるのだが、毒に対する効能が抜群で、市場でも出回ることはない。元となる植物は多く生えているというのだが、その実にうまく虫が寄生し、腐らず生き延びたものにしか薬効は見られないため価値がある。
これを計画的に栽培可能にし、栽培方法も確立したうえで、市場に出回らせたいというのがアルマドの野望だが、今はまだこの温室のものを育てるのに手いっぱいである。
正式な名前はあるのだが、見知らぬ遠い土地の言葉は難しく、アルマドもエミヤも、何度練習してもうまく言えなかった。そのため二人の間では〝万能の種〟で通っている。
「この実を煎じて飲めば、どんな毒にも効くらしい」
まるで夢物語だと言わんばかりに、アルマドが笑う。
彼は、この効能を全く信じていていなかった。
今まで様々な毒に曝されてきた彼としては、そんな都合の良いものが存在するはずがないという考えらしい。だが、栽培方法を確立したいということは、それなりの効果も期待しているのだろう。
アルマドの喜ぶ様が見たいがために、エミヤはこの〝万能薬〟をきちんと育てることを胸に、頑張っているようなものだった。
「温室の世話には慣れた?」
今日のおやつは、例のエン技師が街から買ってきてくれたキャロットケーキだ。素朴な味のそれを、エミヤが先に一口齧り、それを見届けてからアルマドも口にする。
エミヤの自己満足に付き合ってくれてるアルマドに申し訳なく感じるも、それがどうしようもなく、エミヤにはこそばゆく感じてしまう。
「慣れてない!今でも毎日楽しい!見たことない植物をこんなふうにお世話できるなんて幸せすぎるよ!」
アルマドが訊いた趣旨とは違う回答で、エミヤは嬉しそうに笑った。
温室に案内された日、エミヤは日が暮れるまでそこから出てこなかった。
見たこともない植物や薬草を前に胸を躍らせ、ひたすら図鑑と照らし合わせて興奮していたのだ。
「私、今まで生きるために薬草を育ててるつもりだった。花を咲かせて実をつけるのを嬉しいって思ってたのは、妹と私を助ける薬になるから喜んでるって思ってたの。でも、アルマドが温室を任せてくれて、気付くことができたのよ。私は、植物の世話をするのが単純に好きだったんだなあって」
それは、エミヤにとって大発見だった。今まで、妹たちのために生きてきた。
妹たち二人がエミヤの生き甲斐で、なにくれとなく世話を焼き、好いた相手と幸せな結婚をさせてあげるのが、エミヤの夢だった。
だから、その夢が遂げられた時、自分にはなにが残るだろうと漠然と不安になったこともあった。
「私、妹達をお嫁に出したら、どこかの畑で雇ってもらう。そうだ、花を育てて花屋を開いてもいいね!」
まるで老後のおばあちゃんのようなことを言っているが、エミヤにとっては新しい人生の指針だった。
それを聞いたアルマドが、ほんの少しだけ押し黙り、やがて頷いて笑う。
「君がいなくなるのは寂しいけれど、君が育てた花なら、きっと多くの人に求められるだろうね」
今度はエミヤが押し黙る番だった。
(寂しくたって、傍に置いておくつもりもないのに、そんなこと言うなんて)
冗談だとわかっているのに、エミヤは訳もなくアルマドを憎らしく思ってしまった。
(離れて寂しいって思うのは、むしろ私のほうだ)
心臓をぎゅっと絞られたような痛みを感じて、エミヤはそれに耐えるようにキャロットケーキを口に押し込んだ。
温室の温かな空気に身を包まれていたのに、今はこんなに肌寒く感じる。
「……ねえ、いつか街にも植物園を作ろうよ」
だから、そんな寒さを吹き飛ばすように、エミヤはお喋りを再開した。
テーブルに置かれた鎧の指先を、聞いて、と促すようにぎゅっと握る。
「ここの植物の種をもとに、国のみんなにもこんな花を咲かせる木があるんだよって見せてあげられる場所を作れば、国外の植物に興味を持つ人もたくさん出てくるよ」
アシドニアは、雪深い国だ。国土の半分が森なので、そこで育つ立派な木々を木材として加工し他国へと輸出している。
そのため、林業に関しては雪害の回避や軽減などの育林技術が発展してきたのだが、植物や薬草に関してのそれはなかなか伸びることはない。
単純に、日照時間の少ないこの国で育つ植物に限りがあるということと、恐らくそういった窓口が全くないからだ。街から外れた小さな村では日常的に薬草を使用しているかもしれないが、街での薬草の扱いは、それこそ医者か魔女に圧倒的に偏っている。
「この雪国でも、こんなふうに環境を整えてあげれば南の国の花が咲くんだって、初めて知った。南国に咲く花がこんなに色鮮やかなんて知らなかった。あんなにいい香りの葉があるなんて、思いもしなかった。私が感じた驚きと感動を、いつか皆にも体験してほしい。アルマドが立派に育てたこの植物達を、皆に見てほしい」
夢物語だ。現実とするには相当な労力と資金がいる。
けれどエミヤは、アルマドにそれを聞いてほしかった。
(鎧の王様は、栽培の難しい植物を、ひとつひとつ丁寧に育てることができる優しい人だってことを、知ってほしい)
エゴだ。
鎧を肌身離さず着込むアルマドが、裏でなんて言われているか知っている。
それは、街でも城でも変わらないのだろう。
ひどい言葉ばかりだ。アルマドの母親である正妃を引き合いに出して、不美人などと酷いことを言い、顔に傷があるために隠していると噂し、耳を塞ぎたくなるようなことを平気で言う。
(そんなことを、言われていいような人ではないのに)
アルマドは、鎧の向こうで小さく笑ったようだった。
それは、嘲笑なのか優しい笑みなのか判別つかないほどささやかなものだった。
それでもエミヤの手を鎧の指がそっと握り返してくれたので、優しく笑ってくれたんだろうと、エミヤは願うしかない。