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京都伏見・平安旅館 神様見習いのまかない飯

第一話 まかないハンバーグと折り鶴

 結論から言うと、旅館としての「平安旅館」は、とてもいいところだった。

 伏見稲荷大社から車で五分、境内地の北東にある八嶋ヶ池の北にありながら、観光客の往来も激しくない。

 質素なたたずまいだけれども外観は純日本風の作りで、ほっとする。

 旅館の前にワゴンが着くと、一緒に乗っていた家族連れの子供が大喜びで建物に駆け込んでいった。お出迎えに出てきた若い仲居さんが目を丸くしている。

「どうだ。いいところだろ」

 まるで自分の家のように真人さんが自慢する。一緒に送迎車に乗っていた女将さんは、軽く頭を下げて宿の中へ消えていった。あ、行ってしまうんですね……。

 途端に不安になる。

「そう、ね――」

 いまなら引き返せると、心のどこかで声がした。

 そんな私の斜め後ろから、親しげに話しかける男の人の声がする。

「お疲れ様でした。お荷物お持ちしますね」

「ひっ――」

 不意を突かれて飛び退くような変な動きになってしまった。

 さっきまで車を運転していた眼鏡の男性だ。私が変な反応をしたというのに、にこにこと笑顔を絶やさない。いい人だ。まだ三十歳くらいだろうか。色白ですらりとしているのに、その優しい顔立ちと笑顔のおかげで、真人とは随分印象が違う。
その男性は「平安旅館」と名前が印刷された法被を着ている。胸元にはネームプレート。「佐多」と書いてある。

 私の視線に気づいたのか、その男性が頭を下げた。

「平安旅館の番頭をやっています佐多敬次郎と申します」

「あ、はい。天河です」

 自分でも分かるほどかちこちだった。仕事以外で初対面の人は苦手なのです。

「天河様、どうぞ中へお入りください。お茶とおまんじゅうでお出迎えさせていただいています」

 佐多さんは流れるように私の手からキャリーバッグを取り上げた。先ほどの家族連れの荷物も持っているのに、何の重さも感じていないように歩いて行く。見た目は細身だけど力持ちなんだな。

 私のキャリーバッグが旅館の中へ入ってしまったので、私もそれを追いかけなければいけない……。

「ようこそお越しくださいました」

 中に入ると美人の仲居さんたちがそう言って出迎えてくれた。怯む。

 しかし――。

「うわぁ……すごい――」

 広々とした入り口だった。よく掃除されて磨き込まれた木の床は黒光りするようだった。天井は高く、それを支える太い木の柱も、床に負けず負けずつやつやと輝いている。窓から差し込む日の光が優しい。いや、空気そのものがとても優しかった。

 何だろう。すごく落ち着く。

 やっと京都というか、日本人の魂の故郷に帰ってきたのだという感じがした。

 奥のソファにさっきの家族連れが座って、お茶とおまんじゅうを口にしている。

 その光景がどこか私の心の郷愁みたいなものに触れた。

 京都でゆっくりと時間を過ごすにはもってこいの場所じゃないか。

「天河様、遠いところお疲れ様でした。お茶とおまんじゅうでおくつろぎください」

 さっき出迎えてくれた仲居さんたちのひとりが私を近くのテーブル席に案内してくれた。木の椅子とテーブルが温かい。

 あれ? 私、名前言ったっけ?

「私どもでは一度お客様のお名前を伺ったら、すぐに全員で共有させていただきます。お名前でお呼びすることで、ご自宅にいらっしゃるようにおくつろぎいただければと……」

「は、はあ……」と、気恥ずかしくてそんな声しか出ない。

 仲居さんは小豆色の作務衣を着て、腰に前掛けをしていた。髪はショートボブ。眼は仔猫みたいにちょっとつり目だけどかわいらしい。顔立ちも整っている。明るくて礼儀正しくて笑顔も素敵で、いかにも接客業が向いていた。私と同い年くらいだろうか。同じ人間でもずいぶん違うものだなぁ。

 こんな美人さんに愛想よくされたら、気後れしてしまう……。

 しかし、美人の仲居さんはそんな挙動不審の私にも、丁寧な態度を崩さない。

「申し遅れました。私、近森美衣と申します。当館にお泊まりか、まだお考えだと伺っています。こちらにパンフレットがございますので、ごゆっくりご覧ください」

「は、はい」

 花束のような笑顔を残して近森さんが去って行った。

 思わず大きく息を吐いて、出してもらったお茶の蓋を取って、ひと口啜った。

「あ、おいしい――」

 普段、コーヒーばかりで、お茶なんてペットボトルばかりの私でも分かる。このお茶はおいしい。そして高級品だ。

 翡翠色のお茶は熱すぎずぬるすぎず、唇にちょうどよかった。表面にほこりのようなものが浮いているのは「毛(もう)茸(じ)」と言って、いいお茶の証だと聞いたことがある。

 口に含んだお茶がとても柔らかい。

 ふわりとしたお茶の香りが鼻に抜ける。

 身体に沁みるようなお茶だった。

「あはは。おまえ、お茶飲むだけでもめちゃくちゃうまそうに飲むなぁ」

 至福の境地にいた私を軽い男の声が現実に引き戻した。

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