【プロローグ】 ~下町銭湯の日常~




 都会から少しだけ離れたこの下町には、さすがに目も眩むような高層ビル群はなかったが、昔ながらの住宅が密集している地域だ。
 学生向けの安アパートもたくさんあって、近くには何十年も続く商店街と飲食店も立ち並んでいる。
 だから、人口密度だけで言えば都会にも全く引けを取らない、そして活気ある町だった。
 夕方になれば、主婦や学生がこぞって安い食材を求めて商店街に買い物に出掛け、一段と人通りが増していく。
 コンビニも1件だけあるのだが、節約して切り詰めながら大学に通う学生や中流家庭の主婦などにはあまりウケてはいないようだ。
 そんな中、あたしは暖簾を手にして外に出て、入口の軒先によっこらしょ、と引っ掛けた。
 通りが活気に溢れ始める、午後3時。
 この時間が、下町でたった1件だけ営業している銭湯【松の湯】の開店時刻だ。


「よし!」


 真ん中にひらがなで『ゆ』と書いてある小豆色のノスタルジックな暖簾を見上げ、あたしは小さく気合を入れた。
 事実かどうかは知らないが、二年前に死んだじいちゃんが言うには、この【松の湯】は下町の商店街が出来る前、じいちゃんのじいちゃんが生きている頃から続いている老舗の銭湯なのだそうだ。
 んなこと言ったら江戸時代じゃんって、あたしはケラケラ笑い飛ばしていたのを覚えている。
 確か、中学校の頃だった。
 思春期真っ只中の女の子にこの古めかしい銭湯の歴史を話して聞かせたって、重みなんて分かる筈がない。
 その頃夢中だったのは、ジャニーズと放課後に友達と話す恋の話題だったし。