夜8時、数コールで先生が電話に出た。咲子の心が明るくなる。

「先生、私です。咲子です」

「ああ、君か」

電話口の彼は心なしか疲れたような声をしている。

「今、電話しても良かったですか」

「いいよ」

咲子は近況について少し話し、それから二人が次に会える日をたずねた。

「あの、不動産屋さんに行こうっていう話なんだけど、いつ行けそうですか」

「ああ、あの話ね。……申し訳ないけど引越しの話は、もう少し考えさせてほしいんだ」

思いがけない言葉に、咲子が驚いて聞き返す。

「え? 同居するのやめることにしたんですか」

「うん。そういうのはちょっとまだ早いような気がするんだよ……」

それを聞いて、咲子の心が鈍く痛む。

「何でですか。あんなに引越しの話で盛り上がっていたじゃないですか」

「ごめん。それは難しくなってきたんだ」

「どういうことですか。理由を話してください」

咲子が追及する。もしかして急な転勤の話とかが入ったのだろうか。医者の転勤なんてあまり聞かない話だけど。

「ごめん。ちょっと事情が変わってきて、その話はまた今度するよ。今、これからオペが一個入ったんだ」

「わかりました。じゃあ今度いつ会えますか」

「それもちょっとわからない。とにかくまた連絡するから」

坂井先生はそそくさ電話を切ってしまった。

咲子は呆気にとられた。

彼は「また連絡する」と言っていた。

けれど、ここ最近のご無沙汰と今しがたの彼の様子を考えると、それはどこまで信じていいのかわからない言葉のように思えてくる。

咲子の心に不安が広がった。

一体、どんなふうに事情が変わったのだろうか。気になって仕方がない。