狼との恋

翌日文久3年4月16日(1863年5月31日)
容保公の前で上覧試合が行われた。
組み合わせは以下の通りだった。
第一試合 藤堂平助対土方歳三
第二試合 永倉新八対斎藤一
第三試合 沖田総司対山南敬助
試合の後容保公がお褒めの言葉をくだされた。
容保「まさに神業であった!!武士の剣技はもとより互いの信頼感こそ称賛に値する!!それにその隊服 赤穂浪士を模した切腹裃(せっぷくかみしも)の色である浅葱色。義に殉(じゅん)じて死ぬ覚悟の表れが潔いぞ!!」
近藤たちは容保様に気に入られ京都守護職及び会津藩お預かりとなった。
しかし新たな問題が起きた。芹沢らの行動が激しくなってきたのだ。
一番有名なのは文久3年6月1日に起こした大阪力士乱闘事件(大阪で力士を斬りつけ死亡 重傷を負わせた事件)と文久3年8月13日(1863年9月25日)に起こした大和屋焼き討ちである。これにより会津藩から芹澤一派を粛清せよと近藤たちに命が下った。近藤らはまず一番の部下であった新見錦(にいみにしき)に目をつけた。