利十、と名前を繰り返し、菜々子ははっとした。
それはあの、特別支援学級の生徒の名前――。
(どうして)
菜々子の顔からみるみる血の気が引いていった。
そのとき眼鏡が見せた口の端に載せた下卑た笑いを、菜々子は今でも思い出せる。
『母親同士が姉妹でな。利十の母親は妹なんだ。息子が同級生に騙されたことに傷心して、姉である俺の母親のところに相談に来たんだ。叔母さんの旦那はいい人だけど、基本仕事人間で、家に金を入れるだけだからな。学校のことと息子の一切は全部嫁任せさ。あんな話を聞かされて、息子も情緒不安定になって、誰かにすがりたいと思うのもわけないさ』
眼鏡はその話を偶然立ち聞きしてしまった。
飲み物を取りに行こうと廊下に出て、ひそひそ声がしたから興味を引かれて耳をそばだてると、奥から叔母の嗚咽が聞こえた。
『可哀想な利十。可哀想な彼女。妊娠したんだって? 産んだのかな? まだ14でしょ? 悲惨だね~。でもあれか、君が誰を選んでも、賭けならどのみち別の彼女が犠牲になってたわけだから同じことか。はは、ばかみてー』
眼鏡は事の次第を仔細に至るまで熟知していた。
それらをばらさないことを条件に、自らの目的のために必要らしい有正を貸せと菜々子を脅してきたのだ。
はじめからそのつもりだったのだろう。
東に接近したのももしかするとそのための布石のひとつに過ぎなかったのかもしれない。
だとしたらすごい誤解をしてしまった。

