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3月11日




「何でわかってくれねえんだよ!この戦でどれだけの隊士が死んだと思ってんだ!このままだと他の隊士も無駄死にさせちまうだけじゃねえか!!!」




江戸で参加した矢島の配下の者の多くは脱走してしまい、甲陽鎮撫隊は佐藤彦五郎率いる春日隊を含めて121名まで減少した。




このままでは、新政府軍と戦うのは不可能である。そこで近藤は、すぐさま土方を援軍要請の為に江戸へ向かわせた。





"菜葉隊"と呼ばれる旗本の一隊が、援軍に来ることになっていたのだが、この日まで出陣していなかったのだ。




一方、土方を送り出した近藤は大久保剛の名で新政府軍に、甲陽鎮撫隊は敵対するものではないという使者を出した。




しかし、新政府軍は、これを時間稼ぎと判断し、鎮撫隊に対して攻撃を開始した。




鎮撫隊は、はじめ山頂にある大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるということを住職から聞かされ、大善寺を諦め近くの柏尾山中腹に陣を張った。




そして甲州街道に関門を築き、その近くの観音坂に原田左之助の隊、北方の菱山に永倉新八の隊、南方の岩崎山に斎藤一の隊と春日隊を配置し、新政府軍と戦った。





しかし、敵の兵力は1400。




120名ほどの鎮撫隊も懸命に戦ったが、兵力の差はあまりにも大きく、次第に士気も低下し、わずか2時間ほどで甲陽鎮撫隊は江戸方面へ散り散りとなり敗走することとなった。






その際に多くの部下を失った永倉、原田は戦前に退くように訴えたが近藤は聞く耳を持たなかった。







これ以上隊士達を死なせてしまいたくない永倉、原田は会津へ退くよう再度訴えたが現状を知っていても永倉等の話に耳を傾けようとはしなかった。






「永倉君、俺たちは武士だ。武士は戦から逃げてはいけない。まあ、お前等が俺の家来になるというなら会津へ行くのを許可してもいいがな」