あれから2ヶ月が経ち江戸も春に包まれた頃、近藤さんが新撰組に復帰した。





新選組が上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護をしている間、新政府軍が江戸に向けて進行しているという情報が入ってきた。




これを聞いた近藤勇は、旧幕府軍の陸軍総裁であった勝海舟に、甲府城に籠城し新政府軍の進行を食い止めるという作戦を提案する。





その提案は受諾されるのであるが、幕府は既に、新政府への恭順を決めており、主戦派の新選組が江戸に居ては新政府との交渉に支障があるかもしれないと、新選組を江戸から遠ざける意味もあり、勝海舟が派遣を決めたともいわれている。






甲州への出陣が決まった新選組は、2月27日に大久保一翁より2394両2朱の軍資金と大砲2門が与えられ、まず、大石鍬次郎が甲府に先発した。




しかし、新選組では江戸引き上げ後に脱走者が相次ぎ、隊士は70人程度にまで減少していた。




そこで、松本良順のはからいで、浅草の矢島団左衛門とその配下100名が加わることになった。





松本良順は更に、矢島から病院建設資金として受け取っていた3000両を軍資金として提供した。




そして会津藩からも1200両を与えられた新選組は、新選組の名では新政府を刺激しすぎると"甲陽鎮撫隊"と名を改め、近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と名を変えて、3月1日、前日に宿泊した内藤新宿を進発した。