慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を建白、しかし慶喜は天皇の下で諸侯会議の首班になる構想を持っていた。



これに対し薩摩藩など倒幕派は12月9日に王政復古の大号令を発し、徳川慶喜に辞官納地を要求したが、松平春嶽らが慶喜を擁護していた為、薩摩の思うようには進まなかった。




この頃江戸では薩摩藩が旧幕府に対して挑発的な行為を繰り返していたが、これを取り締まろうとしていた庄内藩等が12月25日、遂に江戸薩摩藩邸を襲撃し焼討するという事件へと発展する。



この報が大坂城の旧幕府幹部に伝わり、旧幕府は朝廷へ討薩を上表し、慶応4年(1868)京へ向けて進軍を開始する。




旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽へ、会津藩・桑名藩の藩兵及び新選組などは伏見へと進んだ。兵力数で勝る旧幕府軍であったが、各地で苦戦する。




1月6日夜、慶喜が大坂より江戸へ退却すると旧幕府諸藩も各自領へと撤退した。



7日には朝廷より慶喜追討令がだされ、旧幕府は朝敵とされた。



これにより多くの藩が旧幕府を見限ることとなるが、最後まで旧幕府として戦うもの達と新政府の間でこの後、上野戦争、北越戦争、会津戦争、箱館戦争として戊辰戦争が展開してゆく。