或る日、俊は神田鈴子にボイストレーニングを勧めようと獣医学部を訪ねた。俊は彼女の声を惜しいと思っていた。ボイストレーニングで改善出来ると思った俊は、パンフレットを取り寄せ神田鈴子に渡そうと彼女の所属する研究室へ向かった。研究室に向かう道すがら、俊は京子と交わした会話を思い出していた。京子は友人に頼まれ、俊にラブレターを渡していた。
 京子は言い憎そうに俊に尋ねた。

「あの、あれ読んでもらえました?」

「君の友達がくれたラブレター?」

 京子がこっくりとうなづく。

「うーん、悪いけど、俺、今は女の子とつきあうつもりないんだ。レポートで忙しいから」

「でも、すごくいい子なんですよ。会ってみるだけでも……」

 京子は友人の為に食い下がった。

「会って断ったら、もっと相手に悪いだろ。気持ちは嬉しいし、せっかくのラブレターだから受け取っておくけど、そういうわけだから」

「高杉さん、好きな人がいるんですか?」

「そんな事聞いてどうするつもり」

「好きな人がいるって分ったら、私の友達、諦めやすいかと思って……」

「そんなに言うんだったら、こっちもはっきり言うよ。遊びでいいなら付き合うけど、君の友人のラブレター読む限り、かなり思い詰めてる。こういう子とつきあうと後が大変なんだ。大体、ラブレターをくれる子ってほとんど俺の事を知らない。一方的な思い込みでくれるんだ。で、実際に付き合ってみて自分の妄想と違うと俺を逆恨みする。こんな筈じゃなかったって。君の友人も恐らくそのタイプだ」

「でも、そんなの知らなくてあたりまえだと思います。つきあってないんですから」

「ああ、そうだ。付き合わないと知り合えない。だから、知り合ってから好きになっても遅くないだろ。でも、まったく知り合ってないのに、人の容姿を見ただけで、好きだとか愛しているとか言い出すんだ。いい迷惑なんだよ。俺は白馬の王子様じゃないんだ。生身の人間なんだ……。君の友人には勉強で忙しいからって言っといてくれる。頼むよ」

 俊は、京子にああ言った物の自分も同じだと思った。相手をよく知りもしないで恋心を募らせる。彼女達の気持ちが少しわかった俊だった。
 俊は神田鈴子の肩先からこぼれ落ちた輝く黒髪を思った。あの髪を指で梳く事が出来るなら百万通のラブレターを書いてもいいと思った。愛していると言う一言であの美しい手に触れる事が出来るなら百万回言ってもいいと思った。あの真夏の夜の月明りに輝いた白い手に口付けが出来るなら……。

(一から始めよう。知り合って、友人になって、俺の事を知って貰って、もし、彼女がYesと言ってくれたら……)

 俊は小さな期待を胸に神田鈴子の研究室のドアを叩こうとしていた。鈴子には、鈴子を深く愛している男が、すでに寄り添っているとは知らずに……。
 高杉俊、生涯初めての失恋まで、後三分。