「あの時、どこにも行くもんかって、言ってくれたのにね…」

 震える唇からは、やっとを吐き出せた言葉だった。

「…そうだったな。ごめ…っ」

 彼が言いかけると、深空はそれを制止する。そして、彼女は左薬指に収まっているリングを外し、テーブルに置いた。そしてよろけながら立ち上がり玄関に向かう。

「先生の過去の事情を知らない人をお嫁さんにもらえば、丸く収まるんだよね…」

 独り言のようにつぶやきながら、深空は座り、玄関に転がっているブーツに手をかける。

「あぁ、でも、他の人と結婚するなら、お母さんが亡くなってからのほうがいいよ。遺品も、絶対見られないように片付けて。あたしみたいに傷付くよ、その人も」

 足を通し、ファスナーをきゅっと上げ彼女は立ち上がる。

「あたしみたいに、ね…」

 彼女は笑いながら振り向いた。

 その顔を見たとき、雄二はドキッとしていた。動悸が激しく、思わず胸を押さえたほどだった。深空は、今までになく微笑んでいたのだ。それはとても優しく、悲しみの陰りさえも一切見えなかったのだ。

「荷物、先生がいない時に取りに来るから」

 小さく手を振り、深空はドアの外へと消えていく。そんな彼女に声さえも掛けられず、雄二は拳をガラステーブルに叩きつけようとした。しかし、そこには深空にプレゼントしたあのエンゲージリングが転がっていることに気付くと、それを指でつまみ、握りしめた。

「くそ…っ」

 自分の出した結論で、またも彼女に偽りの感情を生ませてしまったことに、無念を感ぜずにはいられなかった。

 自分は間違っていたのか?

 何度も自問自答を繰り返す。雄二は頭を両腕で抱え、目を閉じた。そして、声にならない声で、涙を流していた。