その時だった。

 ふわりと香る、あのタバコの匂い…

「もう、どこにも行くもんか…」

 彼女の耳元で後ろからそっと抱きしめるのは…

 愛しいその細い身体を包み込んだのは…

 深空には、それ以上言葉を必要としなかった。

 触れられれば、その体温で誰かくらいすぐに解る。
「雄二……」

 深空のつぶやきは、とても小さかったが、彼の耳に届けるには十分だった。

「ただいま。…待たせて悪かったよ」

「おかえり…!」

 それは、深空に心からの笑顔が戻ってきた瞬間だった。

 そろそろこの街も完全に目覚め、人の活気に溢れ出す頃だ。駅の改札から出てくる人の人数が徐々に増えてくる。

「帰ろうか」

 雄二が尋ねると深空はコクンとうなずき、涙を拭う。雄二はそんな彼女を見て、あの大きな手の平で彼女の頭を優しく撫でた。

 そして深空の冷たくなった手を握り、二人は人の流れに逆らって歩きはじめた。

 彼の頭の中のつっかえ棒が外れ、今まで思い出せなかったことが走馬灯のようにぐるぐると駆け巡る。何かを思い出そうとする度に襲い掛かってくる頭痛は嘘のように無くなって、彼の表情には、自信と余裕で満ちあふれていた。

(ありがとう…。そして、おかえり)

 雄二に手を引かれながら歩く深空は、一番の幸せを感じていた。

 月並みな表現ではあるが、今の彼女の心情表すのに、それが一番相応しかった。