そんな人達を少しでも癒し、こりをほぐしてくれれば、とセラピストである胡桃は、匂い、を武器に独り立ちした。
 胡桃は五感の中でも嗅覚に固執する。匂いには敏感だし、匂いに堕落する異性を毛嫌いする。たしかに人によって匂いの趣向は様々だ。六十億人から七十億人という世界人口の増加は種々雑多な匂いをもたらす。それについて研究するのも、一つの学問としては飽きもせず、時間を忘れ没頭することも可能だが、しかし今が時代は資本主義という見えざる檻がある。衣食住という不文律を謳歌するには、仕事、をしなければならない。研究費捻出で頭を悩ますより、 好きな仕事に就いて、自分一人で生計を立てたい。自分の力で全てを成し遂げたい。かつて職場の先輩が、
「胡桃ちゃんはね、職人気質だね、女なのに」
 煙草をふかしながらいった。有害物質たる煙が二次被害を引き起こすことを当事者は知っているのに、我が物顔だから困る。
 わざと胡桃は咳き込み、「いいじゃないですか、職人」と肯定的に返答した。
「嘘でしょ」と今年三十八になる先輩は最近出現してきたと嘆いていたホウレイ線を深く刻み、煙草を吸い、煙を吐き出した。「結婚なんてできないし、幸福は訪れない」
 あなたに言われたくない、と胡桃は心の中で言葉の銃弾を発射した。女というのは婚期を逃し、歳を重ねるにつれ、やさぐれ、若い女を蔑み、最終的には、昔はよかった、と結論づけるのだろうか。彼女みたいにはなりたくない、と胡桃は思った。
「幸福は訪れるものではく、掴むものです」
 胡桃は断言した。
 休憩室に無造作に置かれた灰皿に先輩は煙草を荒く押し付け消した。そこには、怒り、が滲み出ていた。
「仕事に精を出す、というのはとても良い事。それは仕方のないことだからね。楽して生きようとしても、必ず苦労という、ツケ、を後日払わされることになる。人生ってだからうまくできてる。だけど、女は三十までね」
 あと四年しかない、とこの時の胡桃は思った。「三十ですか」
「そりゃ芸能人は、三十過ぎても美を向上させることにお金を使い、プロポーションを維持できるけど、ストレス社会、サービス残業、低賃金化している、この国では、女度はさがり、オス化の一途を辿る。仕事に精を出し、なにかを成し遂げた女の末路は、手遅れ、の文字を背中に貼付ける」