「舞、今少しいいかしら?
 晋作が呼んでるわ」


ずっと私のことを遠ざけるように、
毎日隠れ家に黒猫のハルのお世話を理由に押しかけ続けてた私は、
いつも遠巻きに、晋兄のことを見ているだけだった。


あの日、連れて帰った黒猫は当初は黒猫だからクロって名前にして呼んでたけど、
本当は晋兄に所縁のある名前にしたかったから、今では諱(いみな)の春風(はるかぜ)から貰ってハルと言う名前にした。


ハルは私がいない間も、晋兄の傍でちゃんと寛いでマイペースに過ごしてくれてる。


珍しく雅姉さまに声をかけてもらった私は、
おうのさんの手伝いを切り上げて、まっすぐに晋兄の部屋へと向かった。


「晋兄、舞です」

「おぉ、来たかっ。
 入れ」


中から聞こえるその声に、私は礼儀良くお辞儀をしてから襖を開けた。


晋兄の部屋には、今もハルが膝の上を占拠して寛いでいる。


「あぁ、ハル。
 また晋兄の特等席にいるー」

わざと声を大きくすると、ハルは晋兄の膝の上で器用に四本足でバランスをとって立ち上がると、
尻尾をピンっとして私の方をじーっと見つめる。


「ハル、悪いな。
 後で遊んでやるから、お前はその辺で好きなことしてろ」

晋兄の声に、ハルは仕方ないなぁーっと言わんばかりに、こっちを見て欠伸と伸びをして、
晋兄の膝を降りて、トコトコと移動して別のところで落ち着いたように、
アンモナイトになってお昼寝の続きを楽しんでいるみたいだった。


「舞、少し出掛けるか」


ハルが膝を降りて、再び眠りについたのを見届けると晋兄はゆっくりと畳の上から立ち上がる。

すぐに壁に立てかけられている杖を掴むと、晋兄が歩きやすいように杖を手渡して私は晋兄の右側へとついた。



少し前までは杖なんかなくてもスタスタと歩いて元気だった晋兄。
晋兄の病は確実に進行してる。


高麗人参も、お灸も、大棗酒(たいそうしゅ)も、
見た感じの効果は感じられない。

もちろん、黒猫だって……。



「あらっ晋さま、お出かけですか?」

「あぁ、舞と海辺まで散歩してくる」

「まぁ、後でおむずび持っていきますね」


おうのさんに見送られて晋兄は私と並んで歩きながら、
庭の中を通り抜けて海辺へと続く細道を歩いていく。


海に近づくたびに、寄せては返す規則正しい波音が優しく包み込んでくれる。


そんな砂浜に晋兄は、ゆっくりと腰を下ろす。

私も晋兄の隣に腰を下ろすと、そのまま後ろに倒れて大の字で寝転がった。
真っ青な空に、白い雲がスーっと流れていく。


そんな風景を視線で追いかけながら、
遠い京で生活しているはずの、二人の親友の姿を思い浮かべる。



花桜と瑠花、今頃何してるのかな?

そんなことを思いながら、三人お揃いの香袋へと手を伸ばした。
もう年月が立ちすぎて、ほとんど香りが消えてしまった年季の入った薄汚くなった香袋。


だけどこの香袋が、ずっと私を支えてくれたには違いない。